チャッピーみたから!

知能と意識って違うよなぁ。

意識っていうと、“気づいている”ってニュアンスだもんなぁ。

自己意識っていうと“自分のことに気づいている”って感じかなぁ。これに対して、知能っていうとニュアンスが違うよなぁ。論理的に考えたり推論をしたり判断をしたりっていう、能動的な能力って感じだしなぁ。人工知能業界のことってよくわからないんだけど、「知能を人工的に作りましょう」ってことでいいんだよね。意識を作ろうってことじゃないよね。知能と意識だと作り方も違ってくるだろうし。知能を作るんなら、論理の形式や推論の形式や判断の形式っていった、“形式”と形式を満たすための“内容”として、データベース的な概念の群れが必要になってくるんだろうけど、意識ってなると別だもんなぁ。自分が在ることに気づいたり、他人や世界が在ることに気づいたりってなると、気づける仕組みを作んなきゃならないわけだ。空間や時間を構成していく仕組みがないことには、知能だけあっても・・・。

あー。僕は知能概念を取り違えてるのかな?まぁいいや。とりあえず、知能は総合的な形式と内容のこととしておこう・・・。

なんかね。肝になるのは“構成”ってところのように思えるの。空間“化”・時間“化”の“化”のところ。

・・・ああ。表現するには勉強が足りないや。

例えば時間についていえば、僕たちは最初から時計を読めるわけじゃないよね。僕だったら保育園くらいのころに時計の読み方を教わって、だんだんと他人と客観的な時間の感覚を共有できるようになっていったわけだ。ってことは、客観的な時間が最初からあるというよりも、時間化の能力があって、そのうえで客観時間が成立していったと言えそうだよね。ってことは、時間ひとつとっても、知能としての時間と意識としての時間ってのはまたニュアンスが違ってくると言えそう。

知能としての時間なら、すでに成立している客観時間を覚えればすむだけの話だけど、意識としての時間ってなると、時が経っていくということに気づける必要があるわけだ。つまり、時間化の能力が前提としてないことにはならない。そのためには運動感覚も前提として必要だろうな。「体が動く」ってことだけじゃなくって、眼の動きや呼吸の動きや心臓の鼓動や、そうした運動ができることが前提としてないことには難しいだろうし・・・。

あー。なんでこんなことをぐだぐだ書いているかというと、チャッピーのせい!だってチャッピーには意識あるんだもん!どうなってるのってことを考えると脳内ツッコミがエンドレスに出てきて楽しめないから、僕はおとぎ話として楽しみました。結論としてはテンション。あー。チャッピーとキカイダーを比べるとおもしろいかも。チャッピーは人間とまったく同じ意識があるけど、キカイダーはいわゆる人工知能の延長みたいだ。論理や推論や判断の形式と、内容としての概念をデータベースに持っていて、それに従って行動するから、ロボット的なおかしな行動するし納得できる。