お散歩・1。

ひょんなことから、流鉄流山線に乗ってみることにしました。

❝ひょんなこと❞というのはまったくもってひょんなことで、そこにはなんら必然的な理由はないんです。ただただ「昼食を食べてから歩行してみたら、なんとくなく流鉄流山線に乗ってみたくなってしまった」というだけで、まったくの偶然なんです。

まずは流山駅まで行き、線路沿いに馬橋まで歩くことにします。


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「のんちゃんの焼酎」という看板を見つけました。
全国の望さんや望君はこの焼酎を飲まなければなりませんね。

流鉄流山線は全長6kmくらいだっていうし、まぁ、なんなく歩ける距離でしょう。


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ということで、あっという間に次の駅です。


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沿線を歩いていると、赤いやつが通り過ぎていきました。


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また赤いやつです。
「流星」って書いてある。
・・・そうか、流星号っていうのか・・・かっくいーな。

なにか、物語のなかで出てきそうな名前だな。。。

そういえば、ここのところ物語化の能力が暴走しているように思えます。
例の作曲家さんなどを見ていると、物語を作り出す能力が暴走しているように思えます。
もちろん、彼、彼女の自己愛的な性格に還元してしまうこともできるでしょう。
でも、❝物語化❞ってキーワードから考えると、なんとなく考えさせられることがあるかもしれません。。。。

っていうのも、沿線を歩行しながら、いろいろ考えていたら、自分自身の過去のことや今のことやこれからのこととかいろいろ考えていて、それをどうやって文章で表現しようかな?とか考えていたら、僕自身も自己愛的に自分を飾り立てていることが分かって、「物語化するとはどういうことか?」ってこっとを考えてみなけりゃなぁって思ったわけです。

物語るということには、いくつか種類があるように思えます。

世の中には、「社会的な価値観」ってありますよね。
簡単に言うと、常識性。
小学校に行ったらお友達を作って、中学高校と進学して、つらいことがあってもくじけずに頑張って、友や恋人と人間関係を築いて、社会に出て、人生を送りましょうね・・・っていう、一応社会的に認められている価値の群れです。

たとえばね。その人自身の生き方と、社会的な価値観がマッチしている限りにおいてなら、物語化ってのは、ごく自然にできるんじゃないかな?自分の人生を振り返って、そのまま語っても、それはごくごく社会的な常識性にマッチしているものだから、みんなそれなりに共感してくれるし、まぁ、問題ないだろう。

もし、その人の生き方が、社会的な価値観(常識性)からあまりにも外れちゃったらどうだろう?この時、人は、自分の生き方をなんとか社会に認めてもらおうと、必死に物語を作り出そうとするんじゃないかな?

・・・ぐだぐだ考えてたらお寺だ!


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・・・神社かと思ったらお寺だった!


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まるで僕の歩行を飾り立てるように、銀杏の木が逆光に映えていたり、お花が並べて置いてあります。

でね。必死に物語りを作り出そうとする人たちも、社会的な価値評価とマッチするかたちで物語る限りにおいては、たぶん、聞き手は今までの常識性に捉われない生き方を発見できる可能性があるだろうし、それはとても魅力的に映るだろうな。

その意味で自己愛的な人たちは、やっぱり魅力的な人たちで、僕たちは彼らに気づかされることもあるのだろう。。。
 
っていうか、芸術家なんていったら、社会から逸脱した部分を大切にしながら、それを社会に炸裂させていこうとするから僕らは惹かれるわけで、自分の人生と社会的な価値評価が最初からマッチしている人の自己表現なんて、そんなに魅力的じゃないだろうな。


○物語りの種類。
①最初から社会の価値観とマッチしていいる物語。
②自分から価値観を生み出す物語。


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でも、例の作曲家さんやもろもろの人たちは、現実にあり得ない物語りを作り出して、社会に認めてもらおうとしたわけだ。

彼らはきっと魅力的な人物だろうし、あり得ない物語りを利用しないで物語を炸裂させることができればなぁとは思うけど、それも彼らの人生だし・・・まぁ、しゃーないよな。


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なんとなく夕日に線路が映えてきれいですね^^

~続く~