逃走の根拠。

親戚のじいちゃんが死んで、先日葬式があった。

田舎の葬式疲れたよ。
なんだか親戚100人近く集まって、結婚式みたいだったよ。

なんか、レビィのいう「冷たい社会」みたいな感じで、習慣に従ってことが進んでく感じが何ともいえなかった。

そんで飲酒文化なのね。もろアルコールの家族構造なんだよ。男性は形式を守りお酒を飲む。女性は尻拭いをしまくる。親戚がお酒飲み過ぎたら隠すんだもん。ダメじゃん。めっちゃ尻拭いじゃん。

そんでうちの家族は中途半端に近代的な自我に芽生えてるから立ちが悪い。表面的には自分で考えることを尊重してるけど、実際は自立させないようにしてるの。ダブルバインドもいいとこだよ。しかもサナトリウム家族でちょっとでも例外的なことが起こるとわーわー過剰反応するし、 そりゃあ小さい頃はアトピーひどかったりして心配させたけど、その心配ばかりしてたら子は自立しないよ。僕はそれがいやだから実家飛び出して遠くで暮らしてるんだけど、弟が見事にダブルバインドにからみとられてひきこもりになっちったwっていうか、そういうやりかたでダブルバインドに対抗してる。

そんで、両親は弟のことを知的障害の子のようにみているんだよ。口は聞かないけど「畑を手伝ってくれた」「車の運転してくれた」っつって「優しいところもあるんだ」なんつってw問題はそこじゃないんだ。僕も含めてだけど、なんか家族全体が機能不全になってるところ変なんだ。

そうそう。それで、習慣についての話しは家族でできるんだ。でも、それについてどう思うかとか、どんな意味があるのかとか、そうした判断の話しになると会話にならない。「わからない」「しかたがない」になってしまう。で、思ったのは、「解釈学的な循環に適切に入ることの大切さ」じゃないけど、 この閉じられたら習慣性のループに適切に入れれば問題ないんだ。逆に安心。うちのいとこは見事にこのループに入ってるから、多分いろいろあるけど人生をまっとうできるだろう。問題は、このループに疑問を持つ人たちなんだ。背景に居心地の悪さを感じたり別のありようも在るんじゃないかと思う人たち。

この人たちにとって、習慣の安心感は不自由なんだろうなぁ。おもしろいことに、実家の同級生の中には、結婚せずに家庭を持っていない人たちが結構いる。なんつーのか、(実家の地域の話だけど)僕らの世代はそうした習慣性に疑問を持つ世代なのかもしれないなぁ。

でも家庭を持っていないということは将来的には不安なわけで、どこかで何かの習慣性の入っていかなければならないのかもしれないわけで。。。まぁ、その習慣性っつーのは決して実家の地域の習慣性ではなくって、どこか別のところの習慣性であるのかもしれないけどね。

そうした思慮の流れがあって、ここのところ、エーリヒ・フロムの「自由からの逃走」を読んだほうがいいんじゃないかって気分になってたわけです。