空間は高すぎる。

少年が、ブルーベリーです。

はにかんでいるのです。

僕は先日、定食屋の夢を見ました。
それは暗い道を歩いている夢で、道を歩いているとお店がありました。
そのお店の中には疲れたサラリーマンや疲れていないサラリーマンや疲れたサラリーマン以外の人間や疲れていないサラリーマン以外の人間がいて、それらの人間が椅子に座って食べれる食べ物を食べていました。

定食です。

そのような様々な種類の人間が定食を食べている定食屋のようです。
その定食屋は意外と家から近くって、僕は「ああ。こんなにも家の近くに定食屋があるのならば、僕はその定食屋を利用しない手はないぞ。この定食屋を定期的に利用するのならば、僕の健康度はぐんぐん上がって、きっと半年とか一年後には中性脂肪も平常に戻るのだ。そうして僕は、突発的な死以外ではなかなか死なない類の人間になることができて、様々な人に感謝をすることができるのだ。」と思ったのですが、その定食屋は夢だった。

実際にそんな家庭的な定食屋は僕の家の近くにはなく、僕の家の近くにあるお店といえば、ガストとかサイゼリアとかビッグボーイとかマクドナルドとかほっともっととか、そんなもんです。

だがしかし、この定食屋に僕が抱いた疑えなさというものは何ともいえない明証的なものであり、これが夢であるということは、目が覚めて少し考えてみて、「ああ。僕の家の近くにはああした定食屋はないのだ。」と納得しなければならないほどでした。

それは夢だけれども、視覚的にも聴覚的にもたぶん嗅覚的にも明証的な疑えなさを伴って僕に襲いかかってきたのだけれども、それはすべて嘘だった。

僕の実家は山が多くて、高い山が多くて、そうした高い山が多い環境で小さい頃から暮らしてきました。
僕は、「山がそこにある」ということについて疑いを持ちません。僕はその高い山に登ったこともないし、ただ眺めているだけなのだけれども、おかしなことにその山の実在性についてなんの疑いももっていない。

よく考えたらその疑えなさの根拠は視覚情報だけじゃないか。夢の定食屋は視覚と聴覚と嗅覚と様々な情報を伴って立ち現れているのに、実家にある山は夢ではないのに夢よりも少ない視覚のみの情報によってその疑えなさを支えられている。。。

よく考えたらおかしなことだ。。。

山はほんとうにあるのか?


先日、飲み会からの帰り道、最寄りの駅で降りたところ、少年がいた。

少年はハーフパンツというよりも短パンに近い格好で、たぶん中学生くらいだろう。
灰色のTシャツを着ていたように思います。
そしてその少年は、ブルーベリーを売っていた。
首からブルーベリーのパックがいくつか入った箱をぶら下げて、ブルーベリーを売っていたのです。
23時頃だと思う。

変だ。

が。

確かに少年はブルーベリーを売っていたのです。
そして、僕の前を歩く禿散らかした酔っぱらったおっちゃんのような人間が、少年からブルーベリーを買っていました。おっちゃんは大きなお金しかなく、少年ははにかんだ笑顔を浮かべながら慣れない手つきでお釣りを渡していました。確かに渡していたんです。飲み会の帰りだから僕は酔っぱらっていて、なんだかふわふわした感覚でこの光景をみていたのですが、幻覚とか妄想ではないはずです。視覚と聴覚と、手で触ろうと思えば触れるほどの実在感をもってブルーベリーの少年はいたはずです。
嘘じゃないはず。
夢じゃないはず。

・・・夢の定食屋とは違う・・・はず。。。

夢の定食屋は情報量は多かったけど夢であり、嘘だった。
山は夢の定食屋より情報量が少ないけど実在であり現実であり、きっと実家に帰ると山はある。(はずだ)

では、定食屋と山の実在性の根拠はどこにあるのだろうか?
よく考えてみると、情報量の多さ少なさとは関係なく、そのものの実在性を根拠付ける決定的な契機があります。
それは、その出来事が他者と共有化されているかどうか?ってとこです。
定食屋は、確かに視覚や聴覚や嗅覚やいろんな情報が僕に襲いかかってきて、それは僕にとっては明証的なものだけれども、よく考えればそれを共有できる相手がいない。
これに対して、山はうちのおばちゃんやおばあちゃんも“在る”っていってるし、僕の友達も“在る”っていってるし、たぶん、学校の先生や先輩や近所のおっちゃんおばちゃんも“在る”っていってくれるだろう。
山は定食屋とは違って、僕らのシェアードワールド(共有化された世界)の中に確かにあるのだ。
これが定食屋とは違う山の実在性の根拠なのだ。

だから!

僕はおっちゃんを探すべきだ!

あのブルーベリーの少年の実在性を証明するためには、少年をシェアードワールドの中に定着させる必要があるんだ!

だから!

僕はあのとき少年からブルーベリーを購入した禿散らかして酔っぱらったおっちゃんのような人間を探して、「あなた少年からブルーベリーを買いましたよね?」って問いかけをして、同意を得る必要があるんだ!


そうしたわけで、おっちゃんがいないとブルーベリーの少年は妄想になってしまうのでおっちゃんが必要なのです。