非理念的複合体。

ミスチルの「掌」がステキだ。




なんで桜井さんはこんなステキな歌詞がかけるんだろう?

すごいよなぁ。

ここで表現されていることをあえて概念化するならば、<非理念的複合>とか、<非信念的集合>とかってなるだろうな。

それは、それぞれの人間は弧人(“孤独な人”の略称)として断絶しているけど、お互いに認め合うことで共存しているという世界観です。でもそれってなかなか実現できない困難性を持っています。
なぜなら人間には理性の能力があるからです。

理性の能力とはなにかっていうと、出来事を一般化・類型化して、信念の体系を作り上げて、それを利用して推論を進めていく能力のことです。この信念体系化の傾向性っていうのはどうしようもない人間の癖みたいなもので、これがひとつの癖であることに気づくのはなかなか難しいことです。とても難しいことなので、人は簡単に信念の体系に疑えなさを抱いてしまい、その信念にそぐわない別の体系を非難してしまいがちです。
(この何百年か流行っている信念体系のモードは言わずと知れた「客観科学的世界像」です。これは「再現可能性」という絶対の武器をもっているから、私たちにどうしようもない疑えなさをもって襲いかかってきて、私たちはほとんど身動きが取れなくなってしまっている。だからまぁ、僕はストレングスモデルに惹かれたわけです。)

つまり、現実の人間の姿は<非理念的複合>や<非信念的集合>とはほど遠く、どうしても<理念的複合>や<信念的集合>を作り上げようとしてしまいます。
それは、歴史を振り返れば簡単にわかることで、いろんなえらい人たちが「これが世界平和の手段だ!」と理念や信念の体系を打ち立てるけど、多くが対立する信念を生み出してエライコッチャって感じになってしまっています。

・・・。

もし。
嘘をつかないで話を進めようとするならば、僕たちは一つの原則に依って立つ必要があります。
その現実とは、目で見て手で触れる「直接的な現実」です。
ここから話を始めないと、話は簡単に現実から遊離してしまって、お気楽理想主義に陥ってしまいます。
イデアリスムスに陥る可能性があるってことです)

「直接的な現実」から始めたとしても、世界はエライコッチャ状態になっていて、桜井さんの歌う世界像もお気楽理想主義なんじゃないか?って疑いたくなってしまいます。




だ。

が。

しかし!




だがしかし!!





<非理念的複合>や<非信念的集合>の到来を予感する出来事が先日ありました。

それは、日比谷公園で行われた反原発の集まりです。

もちろんそこには「反原発」という理念があります。
でも、なんつーのか、これまでのデモのような<理念的複合>とはちょっと違ったニュアンスがある。
そこに集まった集団は、強力な統一的理念のもとにまとまりをもった集団というわけではなみたい。
セクトな感じじゃない。
党じゃない。
カルト的な集まりじゃない。

そこに集まった人たちってのは、それぞれがそれぞれの弧人としての在り様を大切にしたまま、それぞれの動機を大切にしたまま集まりに参加しているようなのです。

主婦は主婦として、会社員は会社員として、学生は学生として、プーはプーとして、芸術家は芸術家として、それぞれの生活や業務や信条といった在り方を礼儀正しく大切にしたまま、「原発はヤバいからなんとかしなきゃなあ」と集まっている。

・・先日、ある精神科医の先生と飲んだとき、その方はこんな風な現代の集まりのことを、「集団じゃなくって集合なんですよ」って表現していたんですが、僕はまさしくその通りだと思いました。

僕たちは<非理念的複合>として、<非信念的集合>として力を発揮できる可能性を持っている。

僕としてはこの集合を可能にした要因として、やはりテクノロジーの果たした役割は大きいと思います。

TwitterFacebookといった、それぞれの現在を共有するようなテクノロジーです。

たぶん、老人はこの世界像についてこれないだろう。

all for one for all but i am one
all for one for all but you are one

です。



こんなふうに、お互いの弧人としての在り方を認められる集合が簡単に実現できるような未来になったら素晴らしいだろうなぁ^^