自由の根拠。

道端に僧が立っており、立っているその僧は空を指で切り何かをしゃべっています。

彼らは目に見えないなにものかを相手に作業をしているようです。

目に見えないものは確かにあります。

それは、なにかオカルティックなものというわけではなく、単純に目の前にあるものを分析すれば理解できます。

僕の目の前には怪しげな中華タブがあって、それは単にタブレット型のアンドロイド端末なんだけど、それは単なるタブレット型のアンドロイド端末ではなくて、いくつもあるタブレット端末のなから値段とパフォーマンスを比較して選び抜いたタブレットであり、そのタブレットには AKIRAのステッカーが張ってあり、自作のカバーがつけられており、お気に入りの自炊マンガを読んで泣いたり笑ったりするための端末です。

この中華タブの名前は「翻る虚空」といいます。
(いいの。中二だからwww)

翻る虚空はこうした目に見えない意味の群に覆われている。
そして、覆われているということ自体がこのものの“いま・ここ”の在り様を決定しています。
(つまり、時間・空間的な措定以外に、意味の措定がこのものの在り様の決定的な根拠を担っている。)


そして、僕自身の周りにもこうした目に見えない意味の群が渦巻いています。

その意味の群は僕自身の現在を生気づけるとともに、その意味の枠内に僕自身を押しとどめてしまうものでもあります。
そして僕は、いったん僕自身を取り巻いている意味の群を括弧に入れてしまって身軽になる時期にきているのかもしれない。
・・・いや、身軽になるというよりも、意味の群と距離をとって、自分自身の在り様を吟味する時期にきているのかもしれない。。。

だがしかし、相手は目に見えない意味の群です。

目に見えないものを健在化させるには、それなりの礼儀作法が必要となる。

たぶん、僧の領域では呪文と印で健在化させるのだろうけど、僕は僧ではないので、ある程度論理的な思考的操作が必要になってくるんだろうな。。。

そうしたわけで、論理の印で意味を斬ってみることにします。