詩:「絶望・青ゾハール」
僕のアパートのある場所にはカメムシがいるのです。
そのカメムシをはじめて見たのはずいぶん前のことで、はじめて見たときは「うわあ。」と感じて「うひゃあ。」と感じて「ぴょおおおおおおおおおお。」という感じになったのですが、僕はカメムシを殺そうとは思いませんでした。
それは。
カメムシを殺すと「グチョッ」っとした感じになって、「ベチョッ」っとなるからです。
そして。
「グチョッ」っとなったり「ベチョッ」っとなるのは、潰して殺すからそのような感じなるのです。
ですので。
僕は潰す方法を使わずに、洗剤をかけるという方法を使ってみたのです。
そうして。
しばらくしたらそのカメムシはまだいるので、僕はもう他界しているのかと思い。
よく見ていると微妙に生きているので、僕は普通の洗剤ではなくて、ハイターをかけてみたのです。
そうして。
ハイターをかけたカメムシというものは、動きが早くなるのです。
僕はその動きの早くなったカメムシをみて、「ああ。カメムシというものは、ハイターをかけると動きが早くなるものだ。それは、生き物がその死に直面して、精一杯生き延びようとする剥き出しの生の現れなのだな。人間も同じなのかもしれないな。普段は日常性の中に埋没していて生きているのか死んでいるのかわからないような生き方をしているかもしれないが、「人は死に至る存在なのだ」と死ぬことを先駆することによって、その生の限界を精一杯生きようとする実存的自由をはっきりと自覚することになるのかも知れない。」と思ったのです。
そうして。
僕はそのカメムシは他界したものだと思っていた。
が。
今。
そのカメムシまだ在り。
以上の論証から、明晰にして判明な結論として、「在るは在る限り在る」という命題が取り出されました。
僕はまだ在るから在るのであり、在る以上は大丈夫なのだ。