ポエム「地蔵の時給」

お地蔵さんというものは石で出来ているものであり、その石は大抵の石は石のような色合いをしているものなのだ。僕はお地蔵さんではないものなので、石では出来ていません。どちらかというと、肌色をしているのだ。肌色という色は色ではありません。僕ら黄色肌の人間の肌色は黄色肌であり、黒色肌の人間の肌色は黒色肌であり、白色肌の人間の肌色は白色肌なので、肌色というものは一つの色に規定されない、普遍的な肌性があるフレキシブル色なのだ。だがしかし、お地蔵さんというものにも肌があり、その肌は石なので石色なのだが、その石色はお地蔵さんの肌の色でもあるので、石色は肌色なのかもしれません。肌色ではないのかもしれません。そうして、お地蔵さんというものは、柔和な顔をして、前を見ているのです。僕はおかしな顔をしながら、パソコンのモニターを見ているのです。絶望に打ちひしがれた人間は、過去を見ているのです。若者が前を見つめて生きているのかといったら必ずしもそうではなく、後ろを見ている若者もいるのです。若者だもの。だがしかし、お地蔵さんは若者なのだろうか?たしかにお地蔵さんというものはじっとして前を見ているのだけれども、動かない。動かなきゃ前にいけないだろうに。若者だもの。前を見ているけど動けないということは、ももクロの「chai maxx」を頑張って踊ろうとしても体が付いていかにということと完全に同じだ。これでお地蔵さんの年齢は35歳ということが証明されました。人間は35歳になると、肌色が石色の肌色になって、動けなくなって、前ばかり見つめてしまうのだ。だから、お地蔵さんは肉まんのようなものを手のひらにもっていくのだ。いきなり“肉まんのようなもの”と表現しては、読者の諸君に不案内というものなのだ。若者だもの。だから、次回に“肉まんのようなもの”を撮影します。ごめんなさい。動けなくてごめんなさい。そうして、その“肉まんのようなもの”というものは、なにをするものなかわかりません。いったいなにをするものなの?なぜ生きているの?電波なの?死ぬの?なぜ生きているのか?という問いほど無意味なものはない。すでに起こってしまっていることをさぞ深遠な問のように捉えて、既に起こってしまっているできごとに「どんな意味を与えようか?こんな意味を与えようか?」とその人が勝手に思い悩んでいるだけなのだ。理性の誤謬なのだ。その証拠に、理性の手前を生きている小さな子供は、既に起こってしまっている生きているというできごとに思い悩んだりしないではないか。それにしても、僕らはいかに自分の理性に操られているかということを知ることができない。理性に曇らされている。「理性くだし」が必要なのだな。薬局にいって買ってくるのだ。理性め。