ひめゆり報告書。

・・・人生というものは、旅路ではなくて帰り道なのかもしれない。。。



 なぜ帰り道なのかというと、ジョルジュ・アガンベン木村敏の表現する「ビオス(bios)」や「ゾーエー(zoe)」という概念を引き合いに出す必要があるように思えます。
 まず、ビオスだけれども、これは“個別的な生”という感じです。僕たちは一人一人意識をもって、(とりあえずは)自分で考えて判断を下していると思われている。自分の人生は自分のものであって、自分の人生を生きて、社会生活を送って、良い悪いを感じて、何が自分の判断であるのかその都度選び取りながら生きている。こんな感じの“個別的な生”をビオスと呼んでみます。
 それに対して、死ぬことまで含めた大概念としての生をゾーエーと呼んでみます。動物は、個別的な生よりも集団的な生を優先させる場面が多々あります。・・・たぶん、ここでは「種を存続させるために個別的な死が選択される」という場面の具体的な例を示して説明すべきだけど、僕には思い付かないから出来ないw ・・・できないので、とりあえず、ビオス以前に動いている剥き出しの生のことをゾーエーとします。意識以前の生というのか、動物的生というのか、剥き出しの生というのか、死ぬことも含めた生というのか。。。微妙すぎて僕の持ってる述語だとうまく表現できないんだけど、そんな感じで、とりあえずは生の特徴の違いとして、「ビオス」と「ゾーエー」っていうニュアンスを念頭に。

 11月、沖縄に行ったときにひめゆりの塔に立ち寄りました。そして、そこで貴重な体験をしました。それは善悪や倫理観や道徳観を括弧に入れた上で観て取れる体験です。「ビオス」とか「ゾーエー」とか、生のいろいろなフェイズにまつわる体験です。
 ひめゆりの塔の資料館を進んでいくと、当事者の体験談が上映されるコーナーがあります。そこでは悲惨な戦争体験が語られます。僕はその話を聞いて、いてもたってもいられない気分になって、戦争の恐ろしさや人の愚かさ(理性的判断は必ず誤謬に陥るという意味での愚かさ)を痛烈に感じたのですが、興味深いのは、その上映される体験談を聞いている聴衆たちです。
 そこには、両親に連れられた小さな女の子がいました。彼女はたぶん2~3歳位だと思います。スクリーンには人が死んでいく様子が語られているのですが、彼女は生きることに夢中です。ちょっと大きな声を出したり、母親に抱きついたりと元気一杯です。おそらく、僕ら成人の意識と比べると、その意識はちょっと違っています。確かに意識はあるけれども、「出来事から推論を繰り返して普遍的な出来事を探る」と言ったような理性的な判断とは程遠いような意識だと思います。その意味で、彼女はビオス(個別的な生)というよりも、ゾーエー的な、動物的な生に近い領域を生きているといえるのだと思えます。



・・・要するに、彼女は生きることを楽しんでいるんだ^^

・・・いや、僕には彼女が生きることを楽しんでいるように思えたんだ^^



 そうこうしていると、中学~高校生くらいの集団がやってきました。彼らはスクリーンを気にはしているものの、仲間同士で冗談を言いながら、世間話をしながら通りすぎていきました。おそらく彼らは、年齢的に考えて、さっきの女の子よりも別の意識のあり方を生きていると思えます。自分は何を考えて、何を感じて、どう判断を下したいのか?、そうした個別的な生を生きているのだと思えます。つまり、彼らはビオス的な生を生きているんだ。たぶん、死ぬことが語られているこの空間では、彼らの行動は場違いなのかもしれないけど、女の子がゾーエー的な生を楽しんでいたように、彼らはビオス的な生を楽しんでいるように僕には思えたのです。
 ・・・まぁ、僕も中学~高校生のころはあんなんで、戦争のことを考えるのは確かに大切だけど、そんなんは優等生がすることで、自分は自分自身の生を楽しむことで頭が一杯だったwだからってわけじゃないんだけど、彼らが自分のビオスを楽しもうとするのはとても真っ当なことのように思えました。
女の子や彼らが通りすぎていく間、スクリーンではとても特殊な生のフェイズが語られています。当事者の生は、敵から殺されてしまうという“実在的な死”と、“国のため”とか“捕まって捕虜になるのは恥だから”とかいった、自分から死を選ぶという“理念的な死”によって規定されてしまっています。



ゾーエーを楽しむ女の子。

ビオスを楽しむ少年たち。

そして、規定的にゾーエーに戻ることを迫られた戦争の当事者たち。。。



 もちろん戦争は悲惨だし反対です。しかし、ひめゆりの塔資料館のこの空間には、生のさまざまなフェイズが終結しているようで、なんともいえない気分になりました。

 そうしたわけで、人生は旅路ではなくて、長い長い帰り道なのかもしれません。それはいろんなフェイズがあるとしても、ゾーエーに戻って行くための帰り道なのかもしれません。



※注意すべきは、ここでの文章で語られているような「ビオス」や「ゾーエー」にしろ、生のさまざまなフェイズの話しにしろ、それらは「出来事から推論を重ねて普遍的な原因を探ろうとする能力」、つまり、理性的な能力に頼ったものであることだということです。なぜ、そのことに注意すべきなのかというと、理性は、その性質として、推論を推し進めると必ず誤謬に陥るという特徴をもっているからです。(なんとなくカント関係の本を参照w)たぶん、僕たちは理性についてよく考えてみる必要があるのだろうなぁ。