空所性。

今朝。

寝起きにこんな場面が思い浮かびました。


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その場面は鉛筆で描かれた絵であり、その絵には「自由への回答」という名前をつけるべきだということを知りました。


たぶん。


この絵は僕の思路に関係しています。
僕はこの数日、歴史性と物語性について考えていました。

歴史というと、日本史や世界史が思い浮かびます。
歴史とはなにかと考えてみると、そこにはいくつかの特徴が取り出せます。
乱暴に表現すると、それは「時間的に過ぎ去った出来事であり、その出来事同士が意味のつながりを持ってまとまっている」となりそうです。
過去の出来事が、単にバラバラに羅列されているだけでは歴史とはいえません。
例えば、「Aという出来事があって、これこれこうした理由で次にBという出来事が起こった。そして、その後こうした経過でCという出来事が起こった。」というふうに、過去の出来事の意味のつながりが描かれて、初めて「歴史」と捉えられるのではないでしょうか。

歴史は民族や地域の文化によって違いがあります。
そして、各個人も歴史を持ちます。
僕には僕の歴史があり、他人には他人の歴史があります。
そして、その歴史の特徴とは、やはり文化の歴史と同じように、「時間的に過ぎ去った出来事であり、その出来事同士が意味のつながりをもってまとまっている」と表現できそうです。

さて、歴史の歴史化には、とても重要な契機が潜んでいます。
それは、「過去の出来事がその人の人生の物語として物語られているか」という契機です。
もし、出来事が物語れないのなら、それは単に“過ぎ去った出来事の羅列”にしか過ぎません。
過ぎ去った出来事が「この出来事にはこうした意味があって、こういう理由で私(もしくは文化)を動かしたから次にこうした出来事に行き着いた。そしてその出来事にはこうした意味があり・・・」というふうに物語られることで意味のつながりが保たれて、「歴史」として歴史化されると言い表されそうです。



人や文化には歴史がある。。。
それは、過ぎ去った出来事に対する「物語」という意味づけの作用を通して「歴史」として歴史化される。。。



では、人のもつ「歴史」と文化のもつ「歴史」との違いはどこにあるでしょうか?
これも乱暴な表現ですが、「公共化」ということで言い当てられそうです。
人の歴史は、その人個人にとっては疑えないような妥当性をもついえますが、他者にとってはどうでもいいものかもしれません。これに対して文化の歴史は、その文化に所属している大勢の人にとっての疑えないものなのであり、公共的な妥当性をもっているといえます。



人の歴史は個人的妥当性の枠内で語られる。。。
文化の歴史は公共的妥当性の中でシェアードワールド(共有された世界)を形成する。。。



個人妥当性の枠内での人の歴史はとても大切なものだと思います。
世界が自分にとっての意味をもち、世界が自分のものになるのは、このレベルの物語化によるとはいえないでしょうか?このレベルでの物語化が世界を生気づけているとはいえないでしょうか?そして、もし、人が個人妥当的な歴史をシェアードワールドに炸裂させる術をみにつけることができるのなら、世界はより魅力的なものとして立ち現れるのではないでしょうか?


さて。

例の絵です。

名付けられるべき「自由への回答」という意味がこめられた、例の絵です。

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この絵は、背景が白と黒の格子状です。
格子状の床や壁というわけではないのです。ただ“背景が格子状”なのです。
この絵の左側には小さな机の前に座っている人物がいます。顔がなく、デッサンに使われる人形のようです。
右側の人物は少し笑っており、机の前の人物に質問をしています。
その質問にどう答えるかは机の前の人物の自由です。

単に事実の羅列でもかまわないし、物語でもかまわないし、個人的妥当性の枠内の話でもかまわないし、物語の公共化を目指そうとしてもかまわないし。。。