希望地獄。

希望地獄。

目標を立てる必要が出てきたのであります。

僕は自分の所属する部署の目標を立てる必要が出てきたのであります。

目標にはいろいろな種類のものがありますが、なかでも事実的な目標というものは、いかにも面白みに欠けるものであります。
魅力に欠けるものであります。
なぜ魅力に欠けるのかというと、そこに想像の余地(アン=シャーリー)がまるでないからなのです。

例えば、事実的な目標として、「患者さんの話をよく聞こう」とか「退院支援をしっかりやろう」とか「仕事の形式を作り上げよう」とか「報告・連絡・相談をしっかりやろう」とか、そうした具体的な内容を示したものが上げられます。だがしかし、そうした目標は単なる事実の羅列であり、それが適応する客観的な場面でしか通用しません。例えば、「患者さんの話をよく聞こう」という目標は、例外的な場面に対応できません。もし、患者さんの話をじっくり聞かないことが有効な場面(枠組みを決めて突き放した対応をするような場面)に出会ったときには、適切な対応をすることは、目標を裏切ることになってしまう。そして、僕が危険だと思うのは、その目標に価値評価が付与されてしまうときです。あるファミレスで、厨房におぞましい標語が張られていました。それは「遅延は悪」という標語です。お客さんを待たせるのは悪なのだそうです。僕は悪だとは思いません。もちろん、お客さんを待たせてはいけませんし、迅速な対応をすることは大切でしょう。だがしかし、それが悪というのは、なにかズレている気がしてならないのです。

さて、事実的な目標は、その場限りのものであり、本質的な意味にかけている。
本質的な意味を持つ目標とは、その人がその業務をするにあたり「いつでも・どこでも」妥当するような内容のことです。「いつでも・どこでも」という表現を、「普遍妥当性」と概念化しても良いかもしれません。だがしかし、おそらく、完全な普遍妥当性を持つ目標を立てるというのは不可能なことだと思います。しかし、普遍妥当性を持つ目標は、事実的な目標よりも役に立つ面があるのです。それは、それが抽象的であり、理念的であるという利点です。事実的な目標であれば、客観的な事実がその目標に規定されるかどうかを照らし合わせて判断するだけなのです。しかし、普遍妥当的な目標は客観的な事実を指していないので、客観的な事実が普遍妥当的な目標にそっているのかどうか、そのつどそのつど自分で吟味しなければなりません。おそらく、この「自分で吟味する」という部分が大切です。「自分で吟味する」ということは、その判断が妥当かどうかは、そのつどその場面に居合わせた人の主体性に関わってくるといえます。

ですので、非判断的な事実的目標は意味がないのでやめます。
自分で考えることを促す普遍妥当的な目標を目指します。


そうしたわけで、僕は僕の所属する部署の目標を「希望地獄。」とします。


・・・。


あー。

ぐだぐだ書いてきたけど飽きたからやめるw