創造的批判活動。

仕事をする上でのモットーが必要になったので、文章にまとめてみます。

 僕の仕事は精神保健福祉に関わるものなのですが、世のため人の為に役立ちたいなんて思いは微塵もありません。みんながニコニコ笑顔で暮らせればいいなんて思わないし、幸福を目指しているわけではありません。かといって、僕は反社会的な人間というわけではなく、恐らく困っている人がいたのなら、なんとなく手助けをすることもありえると思います。これは単純に僕の道徳的趣味みたいなもので、「あからさまに救済を口にする人間は不粋だ」という思いがあるからです。

 僕が深刻に問題を感じるのは、「生きたいように生きて死にたいように死ねない」ということです。では、何によって生きたいように生きて死にたいように死ねないのか?僕は、与えられた価値評価によってだと思うんです。

なぜ、このように思うのかというと、それは僕の個人史にかかわりがあります。

 僕は小さい頃からアトピーが酷くて、両親からは過保護に育てられ、周りの人からも暖かい視線を投げかけられることがよくありました。この「暖かい視点」というものが曲者で、この視線は価値評価を伴います。「保護する人=良い人、保護される人=哀れな人」とでもいうような価値評価であり、還元すると「倫理的な正しさ」を伴うような視線です。僕は自分自身のことをずるがしこく卑怯な人間だと思っていたので、保護されるべき人として暖かい視線を投げかけられるのがたまらなく嫌だったのです。

他者の視線によって価値評価が投げかけられ、それによってその人の在り様が決まってしまう。。。

このような一方的な価値観によってその人の現在が規定されてしまうもどかしさが、僕が精神保健福祉に関する仕事を目指すことになった初発のニュアンスです。

 だがしかし、自分の仕事のモットーを、「生きたいように生きて死にたいように死ね」なんて表現してしまったら、僕は社会的な倫理観や道徳観や、社会を影で操る例の秘密結社によって殺されてしまいます。

ですので、僕は自分が仕事をする上でのモットーを、「創造的批判活動」としてみたいと思います。

“批判”という言葉を使っていますが、これは別に何かを否定したり、テレビの批評家のように振舞うことではありません。そうではなくて、「ものごとの限界を知るために批判的に考察してみる」でも言ったような意味です。

では何についての限界を知ろうとしているのか?

僕たちの現在を規定している背景的なもの、つまり、既に有る社会的な規範や倫理観や道徳観や、そういった価値評価の類いです。そうしたものを批判的に吟味し、考察し、限界を知ろうということです。

そして、創造的とはどういうことか?
僕は初発のニュアンスの中で、自分自身の在り様が与えられた価値評価によって捻じ曲げられてしまうというもどかしさを述べました。「創造的批判活動」というモットーの中での“創造”とは、その人のあり様を社会に炸裂させるための創造性です。その人と価値評価の間に良好な関係を築き上げるための、自己表現のための創造性です。

おそらく、炸裂させるべきその人のあり様とは、その人の持つストレングスになりそうです。

既に在る価値評価を吟味し、(自分自身を含めた)その人の持つストレングスを此の世に炸裂させるための活動。これが僕の仕事をするうえでのモットーであり、「創造的批判活動」の持つ意味です。