猫地平。




※上記記事を参照。



そして。。。



藁の山があります。

都会に住んでいる人にはなじみがないかもしれませんが、田舎には藁の山があります。

その山は、秋ごろに出現します。

その山は、秋ごろ、田んぼの近くに出現します。

田んぼで稲からお米を収穫すると、藁が残ります。
その残った藁を積み上げて、小さな山が田んぼの近くに出来るのです。


そして、僕の飼っていた猫には、ちょっと変わった、面白げな行動があります。


僕の飼っていた猫には、「藁の山の中で死ぬ」という、ちょっと変わった、面白げな行動があるのです。



確か中学生の頃だと思うのですが、猫を飼っていました。
飼おうといったのは弟のほうで、名前は“ミー”というのですが、その名前は弟が名付けたものです。
猫というものはかわいいもので、どの辺りがかわいいのかというと、目が大きくてニクキュウがあって、小さくて、ニーニー鳴くところです。
それから、気まぐれに寄ってきて、TVゲームをしていると膝の上で寝てしまうところもかわいいものです。
それから、気まぐれに生き物を仕留めるための爪をむき出して、人の肉をえぐるところもかわいいものです。
それから、そのように人の肉をえぐる猫も、水を浴びせるとびっくりするようにおとなしくなるところもかわいいものです。
それから、屋根の上の危険な場所をするすると動いて、けっこうな高さから着地をするところもかわいいものです。
そうしたわけで、かわいいものであるところの猫を、僕は中学生のころ飼っていたのです。

あるとき、猫がいなくなりました。
かわいいものであるところの猫がいなくなるとさみしいもので、そのさみしさは、気まぐれで寄ってきたり、気まぐれで人の肉をえぐることがなくなるさみしさです。
僕は家の周囲を探りました。
あまり気にかけすぎるのはかっこうが悪いと思い、気にしないそぶりを見せながら家の周囲を探ったのです。
探れど探れど見つからないし、猫が見つからないことで絶望することもかっこうが悪いので、「この猫は僕とは関係がない。なぜなら、飼おうといいだしたのは弟のほうで、名前も付けたのも弟のほうだから、この猫は弟のものなのだ。だから、悲しくて絶望すべきは弟のほうで、僕はいつものようにTVゲームをすればいいのだ。吹きたくもないユーフォニウムを吹けばいいのだ。」と、まったくもって他責的に出来事を合理化し、不在の猫を意識野から消去したのでした。

・・・今思うと、僕の他責的・回避的な特徴は、この頃からあったのかもしれません・・・僕の他責的・回避的特徴のツケはいつも弟に回っていった気がします・・・そのことについて僕は弁解するつもりはありませんが、「もう少しやりようもあっただろうになぁ」とか、「兄弟とはそういうものだ」という割りきりとか、そういう気分になるときはしばしばあります。

そして、藁の山を撤去すると、その山の中に猫の死骸がありました。

骨になっていたようです。

僕はその骨をみませんでした。
なぜ見なかったのかというと、家族が捨てたからです。
それはきっと、中学生の僕や、小学生の弟に対する倫理的な配慮なのだと思います。

そして、家族は藁の山で死んだ猫について、次のような説明をしてくれました。

「この猫は、きっと暖かいところを求めていたのだろう。藁の山は、この猫にとって、きっと暖かく心地よい場所だったのだろう。その暖かく心地よい場所で眠っている間に藁の山の中に落ちてしまい、身動きが取れなくなってしまったのだ。かわいそうだがバカな猫だ。」

これが、僕の飼っていた猫のちょっと変わった、面白げのある行動です。

暖かく心地よい場所に長くいると身動きが取れなくなり死ぬので、はやめに脱出したほうが良い。