無音。

人は。

かっこうが良いものを、身に付けたくなるものですね。

人は。

かっこうが良いものを身に付けたくなるものなのです。




なぜ人はかっこうが良いものをみにつけたくなるのかというと、かっこうが良いものを身に付けて街を歩くと、身が軽くなって、心が軽くなって、表情が明るくなるからです。そうして、死んだおばあちゃんに「僕を母親の産道から取り上げてくれてありがとう(僕の祖母は助産婦さんだった)。そうして、中学生の時にゲームをやりすぎていた僕をしかってくれてありがとう。裏のガレージに閉じ込められたときはトラウマチックな雰囲気になったけれども、ありがとう。」と感謝の言葉を述べて、「ああ。僕は。今。かっこうが良いものを身に付けているのだな。そうして、僕の右前方を歩いている人間や、右後方を歩いている人間や、くだらない会話に勤しんでいる人間が、僕のかっこうが良いものを身に付けているかっこうをみて、「ああ。あの人はなんとかっこうが良いものを身に付けているのだろうか?僕も私も、ああしたかっこうが良いものを身に付けたいものだ。そのように、かっこうが良いものを身につけることができたのなら、僕や私は、きっとこころが穏やかになって、人の頭を殴らず、兄弟姉妹と仲良くなり、老人に暖かい視線を投げつけ、人をガレージに閉じ込めてトラウマチックな経験をさせることができるのだろうに。」ということを思い浮かべるのだろう。一字一句このとうりのことを思い浮かべるとは思わないし、エロいことを思い浮かべることもあるかもしれないが、概ねこのようなことを思い浮かべて、にこにこして、へらへらして、怒りに身を震わすのだ。ああ良かった。僕は歩行しても良いのだ。」というふうな観念を人は頭の中に思い浮かべることができるので、人はかっこうが良いものを身に付けたくなるものなのです。

そうして。

僕もかっこうが良いものを身に付けて、上記のような内容の観念を頭の中に抱きたくなったので、かっこうが良い服を購入しようと思ったのです。

そうして、「黒色であり、長袖であり、黒色の長袖の服の左側の服の部分と右側の服の部分を止める本来ならボタン機構があるはずの部分ににちょっとした工夫がこらしてあり、かっこういい引っ掛けるような機構で左側の部分と右側の部分を止めることができる黒いシャツ」というものを購入しました。

そうして、僕はこの黒いシャツを購入したので、その服をきて道端を歩いて、上記のような内容を頭に抱きたくなったのですが、僕はカバンも買ったのです。
それは、「カバン本体を肩から下げる紐によって肩から下げるほうのカバンであるが、その肩から下げる紐をカバンの本体に装着する部分は本来1ヶ所であるはずであるのだが、このカバンはその部分に工夫がしており、紐をカバンに装着する部分が4ヶ所となっており、その人の生きて生活する様式にあわせて、肩から下げる紐をカバンの本体に装着する部分を変えることのできる黒いカバン」です。

これらふたつのものを身に付けて、カバンの中には僕の機械であるZiiOと哲学史の本と接続詞の秘密が書かれている本とフッサールの本とストレングスモデルの本と音楽プレーヤーと機械のコード類を入れて喧騒にまみれて僕の「私的な我」は「公共的な我」に溶け込みメンテナンスされたのです。

良かった。




人類には想像力が必要なのです。




なので、上記のような説明をした黒いシャツと黒いカバンの写真をブログに載せることはしませんが、そうしたシャツとカバンを思い描くことによって、人類は遠く離れた道ではぐれた子供にスープを差し出すことができるのです。


だがしかし、想像力が詰まった32GのmicroSDカードの画像を載せることは可能なので、それを載せます。

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