「あたらしいたましい」について。






すごい。

この曲はすごい。

PVもすごい。

ちゃとしてるというのか、ちゃんと表現しようとしてる。
もちろん、言葉や音や記号などを使って表現している人は誰でも“表現”してるといえるんだろうけど、この曲とPVにはそうした普通の“表現”とは違う創造力がある。



別のなにかをめがけようとしている。
別の“ありえる”をめがけようとしている。
だから僕はこの曲とPVに創造性のようなものを強く感じる。



そして、ここで表現されていることはゾーエーに近い感じがする。
ゾーエーっつーのも微妙なニュアンスなんだけど、「動物的な生命性」とでも言えばいいのだろうか・・・。

僕たちはひとりひとり自分で考えて判断を下しているわけだから、それぞれが自分の意志をもっているといえる。
それは、自分で自分のことを決めて判断しているということだから、自由の根拠でもあるわけだし、人間性の根拠でもあるだろう。
もちろん、人はそのすべてを自律的に判断しているとはいえないので、この「人間性」は少し観念的なものであり作られた理念ともいえそうだが、こうした個別的な生命のことは「ビオス(bios)」と表現できそうだ。

これに対して「ゾーエー(zoe)」は、人間性以前の動物的な生命性といえる。
人間的な意志以前の生命だから、その生命は“死”をも含めた包括的な生命といえる。
・・・この「“死”をも含めた」ってニュアンスを表現するのが難しくって、ちゃんと表現しないと安易なスピリチュアリティ(テレビ用語としてのスピリチュアリティ)に陥る危険がある。
安易なスピリチュアリティを回避するためには、恐れずに論理の力を借りて表現することが必要だ。
うまくいえるかどうかわからないけど、、動物って、上で述べたような「人間性」がないじゃん。(もちろん人間じゃないから当たり前なんだけど)
個別性がないから、ひとつひとつのビオスとしては軽いわけだ。
例えば、個別の生命としては死を迎えるけど、種全体としての生命は続いていくということは有り得る。
・・・ナウシカ王蟲とか、蟲たちの感覚・・・ビオスを底の方で支えている生命的なつながり・・・そんな意味合いで僕はゾーエーを理解しています。

しかし、人間がゾーエーとして扱われると(つまり動物として扱われると)悲劇が起こることもあるわけで、かといってゾーエーを欠いたビオス(つまり動物的な勢いを欠いたビオス)というものは生命力に欠けるものだ。




で。

この曲。



“他”と“死”が怒涛のごとく現れます。

“他”と“死”ってのは、どちらも自分の自由にできないという意味で異他的なものだ。
僕らは他人のことを、「~だろう」という信憑性の中でしか理解できない。
他人に対する理解は、自分自身の“理解している”という思い込みの中で成立しているといえる。
もし、他人のことを完全に理解できたのなら、それはもはや“他人のこと”ではなくて“自分のこと”になってしまう。
なので、他人には“理解できない”という特徴がある。(“理解できない”がないと他人とはいえない)

“死”についても似たようなことがいえて、僕らは死を理解することができない。
なぜなら、死を経験するといことはビオス的な生が無くなってしまうということで、死の経験後の世界は思い描く世界像の中にしかない。
中には「私は死を経験しました」と語る人物もいるが、語っている当人は生きているので、死んでいるとはいえないだろう。
なので、死を理解するときにも他人の理解と同じように「~だろう」という信憑性の中でしか理解できない。



そして。

不公平なことに。

死ぬのはいつも他人ばかりなんだ。



3.11の出来事は自分にとってまったく異他的なものだった。
(“異他的”っていうのは、“他人事”ってことじゃなくっ上で述べたような意味)
人間のビオスなんて無残にも蹴散らされて、みんな死んでく。
“他”の“死”のオンパレードで、報道を見て死者と行方不明者の数がどんどん増えていくのを知るにしたがって、どんどん無力感とやるせなさを感じてしまう。


怒涛の異他的なものにさらされると不安感と焦燥感でなんともいえない気持ちになるんだ。


で。

この曲。


こうした状況のときって「みんな頑張れ」ってタイプの曲が必要とされるんだけど、この曲に胸を打たれたのは、“他”と“死”が在るってのを、ただただ淡々と歌っているところだ。
そして“他”と“死”が“あたらしい”と“たましい”にかかっている・・・気がする。
僕はそこにゾーエー的なつながりのような、底の方でつながっている生命力みたいなものを感じたわけです。
機械の音だし、声も加工されているわけだから、「ビオス的な技術によってゾーエーが表現されている」といった感じかな。。。。



ここからは僕の勝手な思いなんだけど、“他”の“死”について、生きている人ができる唯一の礼儀正しい接し方っていうのは、意味を与えることなんだと思う。
意味のある“意味”を付与することにあるんだと思う。
“他”の“死”が無意味だったら切ないし、生きている僕らも辛い。


そんなんで、ゾーエー的なつながりを表現している(と感じられる)この曲とPVに僕は勇気づけられたわけです。



※ビオスとかゾーエーについては、木村敏臨床哲学の知」参照。