言語の恣意性について。

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“どひぇー”というよりも“うひょー”という感じだ。

いや、ひょっとすると“ひょえー”かもしれない。

よしんば“ぎょえー”だとしても、“がびーん”ということはないだろうし、“ひょほー”ということでないということは、それは“ぴょこーん”という感じだ。

だがしかし、それは“どよんど”という感じなのだろうか?

なかんずく“もぬーん”だとしても、それが“ぴょふん”ということではないだろうし、ましては“そのこんべ”というわけではないだろう。

たしかに、“ぬっもふ”が“もけっぽ”であり“ちゅひょも”であるとするならば、それは“ぎー”であるが、“ぎー”が“ぎー”であり、かつ、“ぎー”であるというかぎりにおいて、“ぎー”は“ぎー”として“ぎー”であることは保証されているのであり、かつ、保証されるのである。

ああ。

よかった。

“ぎー”が“ぎー”であるということは、今日も人類は安全だ。

とりあえず、“にゃー”だ。

にゃー。





・・・。



と。

いうことを。

今年の3月ごろ感じたのだが、それから半年ほどたって、今日も似たいようなことを感じました。。。