ウルトラが博多、そして正気-1。

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此の世から脱出した老賢者、アーサー・C・クラークSF小説「宇宙のランデブー」には、ラーマと名付けられた謎の宇宙船が登場します。
この宇宙船にはある意匠があります。
それは、“3”を元にした意匠です。
地球から派遣されるラーマ探検隊は、この宇宙船のところどころで“3”にまつわるデザインを見て取るのです。

そして。
僕の部屋にはゴキブリが出ません。

と。
いうのも。
ゴキブリは出ないのです。

以前、2年ほど練馬のアパートに住んでいたのですが、その時はゴキブリがたくさん出ました。
“たくさん出た”といっても、何百匹ものゴキブリが一度の現れたということではなく、2年の間にゴキブリに遭遇する機会が多くあったということです。
一度などは、アパートのドアを開けたとたんに、僕を目掛けてゴキブリが飛んできたことがあって、あの時はさすがに嫌になりました。
目の前のドアを開けることが嫌になりました。
部屋に入ることが嫌になりました。
この部屋で生活をすることが嫌になりました。
呼吸を繰り返して、食料を食べて排泄をして睡眠を取って生活をすることが嫌になりました。
生きていることが嫌になりました。。。

だがしかし、僕は持ち前の勇気と友情と努力を生かして、このアパートで暮らしていたのです。

そして。
今の僕のアパートにはゴキブリが出ません。
こんなにうれしいことはない。
うれしいことはないのだけれども、練馬のアパート体験が忘れられず、僕は今でも手元にゴキジェットをおいており、いつでも飛んでくるゴキブリに噴射できるような体制を作っているのです。

そして。
ゴキブリは出ないのです。

そして。
ゴキブリは嫌悪感の類型なのです。

・・・僕たちはゴキブリを類型的に見て、一つ一つのゴキブリを見ていない。。。

例えば、人間に出会ったとします。
そのとき僕らは、「Aさんという人間は好きだけれども、Bさんという人間は嫌いだ」というふうに、それぞれの人間に対して“好き・嫌い”を感じます。
現に僕は、職場にいる“中肉中背の40代半ばのある男性人間”のことは死ぬほど嫌いだけど、職場にいる“中肉中背の40代半ばのある女性人間”のことはそれほど嫌いではありません。

つまり、僕らは人間を類型的に見ていないのです。
ひと人間ひと人間の個性を見ているのです。

しかしゴキブリの場合はそうはならない。。。
このゴキブリは好きだけど、このゴキブリは嫌いだ、とはならない。
ゴキブリはすべて嫌いだと、類型的にしか見ることができません。



「博多の女」だ。


モダンチョキチョキズには「ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説」というアルバムがあり、このアルバムは1993年に発売されました。
僕は発売された当初からこのアルバムが気になっていたのです。
しかし、結局は買わずに、聞かずに生活をしていたのです。
そして、生活をしていたら、ひょんなことから、このアルバムに入っている「ふられ節」を聞くことになったのです。
その“ひょんなこと”とはそれほど“ひょんなこと”ではないのです。
なぜ、“それほど“ひょんなこと”ではないのです。”といえるのかというと、YouTubeで自分の意志で探して視聴したからです。
久しぶりに聞いたら、とてもうれしくって、ちゃんとした綺麗な音で聞きたくなったのです。
だから、この場合の表現は“ひょんなこと”なのだ。

近所のレンタル屋を探したら、「ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説」がありました。
で。
ここ数日「ふられ節」をループさせて聞いていたのですが、このアルバムに入っている「博多の女」という曲が最高でした^^

曲調も60年代的というのかなんというのか、かっこいいのですが、歌詞が良かったのです。

「博多の女」とは、まんじゅうについての歌です。
大抵の観光地には、その観光地にちなんだまんじゅうが売られているものです。
この歌に出てくる人も、どうやら友人からお土産のまんじゅうをもらったようです。
ですが、もらったまんじゅうは、どのまんじゅうも味も形もまったく同じです。
包み紙こそ違うものの、その全てが同一です。
そして、この歌の人物は「まんじゅうにイマジネエションやオリジナリティやアイデンティティはいらないのだろうか?」と問いかけるのです。。。

僕はこの歌を聞いたときに、ゴキブリの類型感覚を思い出したのです。

で。
も。
ゴキブリやまんじゅうにイマジネエションやオリジナリティやアイデンティティがあったらめんどくさいからいらないのだろう。

そして。
人間にはイマジネエションやオリジナリティやアイデンティティがあるからめんどくさいのだ。

・・・「人間にイマジネエションやオリジナリティやアイデンティティは必要なのだろうか?」・・・w・・・。


~続く~