拡張現実的現実の原現実性。

ウサギを追えない。

平沢氏のアルバムに「ヴァーチュアル・ラビット」というのがあります。

それは、月の裏側にいるウサギ追いの話しです。
此の世では社会性を兼ね備えた赤子が次々と生まれるという奇妙な事態が発生し、月の裏側では空想のウサギが飛び回っている。
そして、そのウサギを追いかける宇宙飛行士。
(・・・詳しい内容はわすれました・・・w・・・帰ってストーリーを確認します。)
たぶん、僕らの生活を半強制的に規定してくる客観性が、人の持っている創造性を奪い取ろうと襲い掛かってくる様を描こうとしているのだと思います。
・・・平沢氏の真意はわからないけど、僕はそんなふうに解釈しました。。。




先日、ある心理の講座で、「人が成長していくということは、その人の内にあるワンパターンとマンネリを打破していくということですよ」と講師の人が言っていました。
僕は「なるほどなぁ」と思ったのですが、それと同時に講師の人は、こうも言っていました。
「社会に出て行くということは、その文化の中で培われたワンパターンやマンネリを引き継ぐということだから、保守的にならざるを得ないんです。」
僕は「なるほどなぁ」と思ったのです。
社会の中にある文化的なワンパターンやマンネリっていうのは、その文化の中で守られているルールや規範であったり、流行り廃りであったり、そうした背景的な仕組みって表現できそうです。


・・・“ワンパターンやマンネリ”・・・ながったらしいので、これを“虫の我”という言葉でくくり付けてみます・・・成長しようとするのは内的“虫の我”の打破であり、社会に出るのは社会的“虫の我”の享受であり。。。


と。
いうことは。
僕らは常に引き裂かれて状態に置かれている。
一方では内的“虫の我”を打ち破ろうというラディカルな傾向があり、もう一方では社会的“虫の我”を享受しようとする保守的な傾向がある。。。
社会の中で問題なく過ごそうとすると、ほとんど強制的に“虫の我”が自分の中に入ってきます。
そして、危機なのは、社会的“虫の我”と内的“虫の我”が一体化してしまったときです。

そうなると。
ウサギがいなくなる。
“虫の我”に魅了されると、架空のウサギを追えなくなる。



今日、職場からの帰り道、サイゼリヤの前に4人の少年がたむろしていました。
小学校高学年~中学1年生くらいの少年です。
彼らは4人で集まってぐだぐだとしているみたいなんですが、そのうちの二人がヘッドホンをつけていましたw
たぶん、音楽かなにかを聞いているのでしょう・・・もちろん、お気に入りの音楽を聴きたいときもあると思いますが、仲間と集まっているときにそれぞれが好きな音楽を聴きだすなんて、そんな人間関係なんてちょっと成立してないだろうという思いに駆られました。

ひょっとしたら、社会性を兼ね備えた大人は、彼らのことを注意すべきなのかもしれない。
「仲間と一緒にいるときは、勝手に自分だけ音楽を聴くもんじゃない!」
なんつって。

でもなあ。
なんつーか。
しゃーないんじゃないかなぁとも思えてくるんです。
ヘッドホンをつけて音楽を聴いて、自分だけの世界を引き連れていないと、やってらんないのかもしれない。
社会的“虫の我”は僕らの中に半強制的に進入してくるわけで、それを何とかしようと思ったら、自分の現実を少し拡張して、自分の世界を強引に確保しないと此の世をドライブするのは難しいのかもしれない。


さ。

て。

この事態をどう捉えるのか?
拡張現実を不健康な現実をみなして退けてしまうのか?
それとも、これがこれからの人の姿として肯定すべきなのか?




・・・それはそれとして・・・今ドトールなんですが、電灯の周りを蛾がひらひらしているのです。