一句。

とんかつの

ころものあたりが

エレクトロ








※解説
私たちは日々生活をしているととんかつを食べる機会があるものだが、その機会が“機会”ではなく“機械”であるのならばどうだろうか?とんかつを食べる機械があるのならば、それはあまり人間の役には立たないだろう。なぜならば、僕はとんかつをおいしいと感じ、そのおいしいと感じたとんかつをもりもり食べて、もりもり食べて、僕は一日の疲れを解体させて、また、テストだとか、ここ一番の時にはとんかつを食べてげんを担いで元気一杯にとんかつをもりもりと食べることが出来るのだけれども、もしもとんかつを食べる機械があるのならば、僕はもりもりととんかつを食べることができない。だから、とんかつを食べる機械は未だに作られてはいないのだ。だから、人間の役には立たないのだ。だがしかし、もし、人間がとんかつをたべる機械を作る理由があるのならば、それはテクノだ。テクノなかっこよさはロボットで銀色だ。だから、とんかつを食べる機械を作る正当な根拠としては、その銀色の感じとテクノな感じと、テクノがもりもりととんかつを食べている姿を見て、「ああ。これがテクノというものなのだ。人間はまだ生きていていいのだ」と、思います。そして、もし、テクノなとんかつを食べる機械というものが、とんかつの衣の部分を食べたとき、きっとその衣の部分のおいしさに、エレクトリカルな感覚に陥って、こんな句を読むだろう・・・「とんかつの ころものあたりが エレクトロ」・・・そしてこの句がどんな意味を持っているのかというと若干の解説が必要で・・・(※解説の始めに戻ってください。そして無間ループ的エレクトリック地獄に陥る。)