dull像。

たぶん僕は、「楽しく生きること」や「健康的に生きること」や「幸福になること」とか、そういった表現の仕方に違和感を感じているんです。

・・・こうした表現の仕方のことを“dull像”と呼んでみます。。。

なぜなら、悩んだり絶望してみないことにはわからないことがあるからです。

“dull像”に現実を規定させようとすると、なんだか大切な生き辛さを無視しているような気がしてなりません。

だがしかし、“dull像”を目指すことも必要なわけで、そうなってくると、“楽しく”とか“健康的に”とか“幸福に”とか、そうした既に出来上がっている価値観を使わないで表現することが必要に思えます。




・・・たぶん。。。


・・・それは。。。




「何が必要とされているのか?」という表現になるのではないでしょうか?
この表現なら“dull像”に陥ることもないし、必要な絶望に対しても開かれています。
ちゃんと不幸になってちゃんと悩んで、そこから掴むことを軽んじていない。
それなりにプラグマティックだし。


そうしたわけで、僕には何が必要とされているのか。