“あいだ”連続体。

今、僕は今の職場に不健康な構造を感じていて、別の構造を求めて就職活動を始めようとしています。

それは、構造に対する主体側のささやかな抵抗みたいなものです。

構造の側は「汝かくあれ!」と僕を規定してくるけど、主体の側は「我はかくある!」と抗ってもがくわけです。

こうした主体と構造っていうモデルは、やっぱりずっと続いていくものなんだろうなぁ。




今、フィヒテの「全知識学の基礎」の概説を読んでいます。
どうやら「全知識学の基礎」は、第一部「全知識学の諸根本命題」、第二部「理論的知識の基礎」、第三部「実践の学の基礎」という三部構成になっているようです。

そして、第一部には、自我のあり方に関して、三つの根本命題が示されています。

第一根本命題。
「自我は根源的に端的に自己自身の存在を定立する」

第二根本命題。
「自我に対して端的に非我が反立される」
(「非我」っつーのは、自我の外にある対象って感じみたいだけど、でもカントのいってるような「物自体」ってわけでもなくて、自我との関係によって規定されるものって感じらしい)


第三根本命題。
「自我は自我のうちで可分的自我に可分的非我を反立する」

さらに第三根本命題は次の二つに区別されるみたいです。
・「自我は非我を自我によって制約されたものとして定立する」
・「自我は自己自身を非我によって制約されたものとして定立する」

そして、「自我は自己自身を非我によって制約されたものとして定立する」っていう命題は、「非我は(能動的に)自我を規定する」という命題と、「自我は(絶対的活動によって)自己自身を規定する」っていう命題に分析されるみたいです。

自我は、規定されると共に規定していくようなもんっつーことみたいだ。

こうした、「自我は部分的に自己を規定し、部分的に規定される」っていうのは「交互規定による総合」と呼ばれるらしい。

だから、規定は単独に行われているわけではなくて、それと対立する規定との関係のうちで捉えられるらしい。


なんだか面白いですね^^


まだ読んでいる途中だから、簡単にはいえないんだけど、自我そのもの自体、規定することと規定されることから成り立っているっていうのは、なるほどなぁって思います。

僕も主体と構造の“あいだ”で、規定したり規定されたりしながら生活しているわけだもんなぁ。

確か、前に読んだ放送大学の教科書の「近代哲学の射程」の中には「有限と無限の“あいだ”」っていう表現が出てきました。

木村敏氏は自分と他者との“あいだ”のつながっている感じから、“ビオス”とか“ゾーエー”って表現に至ったようです。


なんていうか、意味のつながりは面白いですね。


いろんな出来事が連句詩のようにつながっていくような感じで、ドキドキしながらワクワクします^^

僕のささやかな抵抗が成就するかどうかはわかりませんが、まぁ、とりあえずは未来志向的に過ごしてみようかなぁと思っています。






はっ!?


まずい!!


僕は絶望キャラのつもりだったのに希望的なこと言ってるwwwwww