メキシカンフライヤー。

ウルトラマンネクサスに出てくる記憶消去装置は“レーテー”って呼ばれていました。
それについての話はネクサスの物語の核心部分になるし、ひょっとしたらこれからネクサスを見る人がいるかもしれないから触れないで起きますが、レーテーの忘れ川については考えなければなりません。

っていうのも、この川について考えなければ、僕たちは倫理や道徳に陥ってしまい、少しも良いことが出来なくなってしまうからです。




職場に信頼できる心配がいます。


その人は絶望経験をして回復して、今は職員として働いている方です。

アルコールとかタバコとかギャンブルとか、いろいろと現実から目を背けさせてくれるようなものについての話しをしていたときです。

・・・仮に、こうした嗜僻のようなものを“メキシカンフライヤー”と呼んで見ます・・・w

その人は、生活するってことを、川を渡ることに喩えていました。

川のこちら側から向こう側に渡るには、いくつもの障害があります。
川の深いところもあるだろうし、流れも速いところもあるだろうし、気をつけなければ足をとられてしまいます。
たぶん、こうした障害に真っ向勝負を挑んで乗り越えることが出来ればいいのでしょうが、必ずしもそうは行きません。

・・・乗り越えることの出来ない障害なんて、素直に負けを認めて迂回すればいいんです。
そんなもん逃げちゃえ。
めんどいからほっぽらかして、しかと決め込んどけばいいんです。
負けときゃいいのに。。。


だ。

が。

・・・だがしかし・・・

生活者を取り囲んでいる構造は、そうはさせてくれません。
構造が形作る価値観は、僕たちに“~せねばならない”を強要してきます。
・・・障害は回避するものではなく、乗り越えなければならないものになってしまう・・・ああ・・・うざいなぁ。。。

で。

“メキシカンフライヤー”の登場だ。

“メキシカンフライヤー”を利用すれば、なんとか乗り越えられちゃったりします。
でも“メキシカンフライヤー”を利用すればするほど“メキシカンフライヤー”は背中に溜まっていって、足取りは重くなります。
向こう岸に辿り着くのはだんだん大変になってきて、気をつけないと、今度は“メキシカンフライヤー”の重みで川に沈んじゃいます。

そうなるとちょっと厄介で、“メキシカンフライヤー”を捨てて水面に脱出して、再び向こう岸を目指せるように体制を整えなおさないとならない。。。

で。

大切なのは意味です。

“メキシカンフライヤー”の持っている意味です。

たぶん、“メキシカンフライヤー”は倫理的道徳的に悪いことだから利用しないほうがいいとか、健康上体に悪いから利用しないほうがいいとかいった理由付け(仮に“因果的理由付け”としてみます)はあんまり役に立ちません。
なぜなら、因果的理由付けは意味を無視しているからです。
(ただし、僕たちは客観的な視点を信用するように訓練されているから、普通に社会生活をしている(絶望経験が無いような)普通の生活者には因果的理由付けは有効かもしれません)
原因と結果には分けることが出来ないような、その人の物語の中でしか意味を成さないような、そうした視点です。
そうした視点から、その人がなぜ“メキシカンフライヤー”を利用しなければならなかったという、その意味を探ることが必要になってくるでしょう。

ですから、“メキシカンフライヤー”は必ずしも悪者ってわけじゃなくて、川を渡るためには必要なスキルだったりするんです。
そうしたスキルと対峙して、折り合いをつけて、自分の物語の中にうまく(うまくっていうのは健康的にって感じで)定着させて、“メキシカンフライヤー”をだんだん脱ぎ捨てながら川の向こう岸を目指せればいいなぁ。

さて。

人のことはどうでもよくて、自分のことについてなんですが、僕も“メキシカンフライヤー”を利用しながら生きています。
それはお酒やタバコだけじゃなくって、うまく仕事から逃げるスキルとか怪奇小説の同じ短編を何回も読むことだったり、他人の妄想を間借りすることであったりします。
そうした“メキシカンフライヤー”を利用しながら、毎日生活をしています。
それはそれで必要なことなんだけど、川の中に沈んでしまわないように、いつかは“メキシカンフライヤー”と折り合いをつけないとならないんだろうなぁ。

“メキシカンフライヤー”と折り合いをつけるっていうのが成長するってことなのかもしれないですね。


それにしても、なぜ“メキシカンフライヤー”と名づけたのかというと、この文章を書いているときに聞いていた曲が“メキシカンフライヤー”だったからです^^