自走する自分。

昨日、僕はすごいことに気がついたのです。

それは、僕は移動できるということです。

僕は、僕から見て“そこ”に移動して、“そこ”を“ここ”に変えることができるのです。
そうした調子で空間を展開していき、僕の活動限界は際限なく広がっていきます。
なぜ際限が無いのかというと、“そこ”に行くと“そこ”は“ここ”になり、その“ここ”から見た“そこ”が出てくるからだ。

このように僕は自走して、僕は空間を展開していき、その空間は終わりが無い。
そして、この自走展開空間にはうぞうぞしたものがくっついてきます。

そのうぞうぞは、履歴です。

自走展開空間は、展開されるごとに意味に彩られていて、その意味はすでに知っているもののことだから、知っているものっていったら履歴になります。

このようにして、僕は移動して履歴を引き連れて空間を展開できることに気がついたので、僕は散歩をしたのです。

実は、実家の空間はそれほど開けていない。

なぜなら、去年、実家の引越しをしたからです。
僕は実家を離れて住んでいて、年に数日しか帰省しないから、なかなか実家周辺世界は開きません。

ですので、僕は自走空間を展開するために、近所をうろうろすることにしたのです。


そして。

分岐だ。


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少し進むと森になっていて、そこには三叉路があります。
この3分岐の内、ひとつの分岐を僕は知っています。


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右側の分岐・1に進むとこうなります。







こんな感じで川が流れていて、エロい木に遭遇できます。


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僕は分岐・1にはエロい木があることを知っているので、今回は行きません。

そして。

僕は分岐・2に進みます。


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分岐・2に進むと、MIST的な整然とした林が見えます。


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そして、この林についているうぞうぞした意味は、こんな感じです。


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下には海があって、右下にはお花があって、左下には論理担当が「ダメな宇宙。」といっています。
そして、梯子がかかっていて、そのうえのほうには顔のない従者が寂しげにフルートを吹いています。
そのフルートは、梯子の上の中央にある、盲目にして白痴の旧神:アザトースを慰めるための単調な音色です。
さらに、アザトースの上には朗らかなイチゴミルク味があります。

イチゴミルク味に出会えたので、僕はうれしくなって引き返し、最終の分岐である、分岐・3に進んだのです。


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分岐・3はさわやかな小道です。

ところどころにコテージが見えます。
何軒かは明かりがついていて、人がいるようです。
BGMは単調なテクノ。


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こんな感じで、自然の持つフラクタルな構造をテクノミュージックは触発するので、良好な気分になります。

そして、小鳥の鳴き声や虫の音がします。
綺麗は整然とした木々が見え、穏やかな小鳥や虫の鳴き声がして、ひとりぼっちの不安感と、熊が出るんじゃないかっていう不安感と、自然の持つフラクタルな構造の触発と、安堵感と、綺麗だなぁと思う感覚と、いろんな感じがしてきます。

そうすると、うぞうぞした部分がうぞうぞと動き出し、自走展開空間に意味が彩られます。

その意味は、懐かしさです。

あたたかい懐かしさです。

今から8年前に体験した、あたたかい懐かしさです。

だがしかし、その懐かしさはリアルではない。

それは、架空の懐かしさだからです。

その懐かしさは、ドリームキャストで発売されていた、「シェンムーⅡ」の懐かしさです。
シェンムーⅡ」の後半なんですが、ヒロインの女性と誰もいない桂林の山道を淡々と歩くっていう場面があります。
その場面は穏やかで、綺麗で、見知らぬ土地を歩いている不安感とか、これからどんな村に行くんだろうっていう、旅先でのおなじみの感じとかあって、なかなかの名場面です。

こんな感じ。。。





で。
この懐かしさを感じました。

たぶん、世間の良識ある常識人は、このバーチャルな懐かしさに対して、「リアルとバーチャルの区別がつかなくなってるんじゃないの?危ない人なんじゃないの?」とか言ってきそうですが、ここで倫理観や道徳観を持ち出すのは、ちょっと不粋な気がします。

正しいけど不粋。

粋じゃない。

なぜなら、森で感じたバーチャルな懐かしさは、現実の成り立ちを探るうえで、大切な感覚なのかもしれないからです。



そうしたわけで、連休も明日で終わりだー。

あー。
あああああ。
あー。

連休終わるなw