履歴-現在。

若くして有名な文学賞を受賞する作家たちがいます。


名前とかはよく知らないし作品名も思い浮かびませんが、なんでこんな若さで受賞できるんだろう?って人が受賞しています。

きっとその作品はすばらしいに違いないでしょうし、読み応えのあるものだと思います。

しかし、作品は生み出された瞬間から作者の手を離れて視線の被害をこうむります。
この文学賞を受賞した作品も、評価された時点で選定者の視線の被害をこうむるわけです。
ということは、作品のすばらしさもあるでしょうけど、その作品を評価したものの視線も気になるところです。


若い人の作品であるってことは、その著者の履歴(っつーか歴史性みたいなの)は薄いのでしょう。
それは物理的なものだから仕方がないことです。
その人の履歴が薄いということは、その人の履歴から紡ぎだされる類推はそんなに多様ではないことになります。
作品にまとわりつく著者の履歴が薄いということは、より現在に近い物語と表現できそうです。
その著者は、履歴を使って意味を付与していくというよりも、現在を解釈したり評価したりして表現している。


若い作家が大きな賞を受賞できるということは、選定者は履歴よりも現在を評価していると考えられそうです。




なぜだろうか?




選定者の履歴(っつーか歴史性みたいなの)がとても気になります。
なんで履歴から紡ぎだす物語より、履歴が薄くより現在に近い人たちが紡ぎだす物語を評価することになったのだろうか?


だ。

が。

しかし。


そもそも僕はそうした若い作家の作品をまだ読んだことがないので、これまでの文章は単なるあてずっぽうですし、こっから先も話を進められないんでとりあえず止めにします。