癒合の職場。

class-夢。

光景-癒合の職場。




今さっき、自己充足システムの罠に捉われている集団の夢を見た。

場所は奇妙だ。

その場所は、取り壊された僕の実家と僕が今勤めている職場とが癒合している。
夏休みの夕方、みんなで外で遊んでいるような感覚であるが、その相手は職場の同僚で、みんなは仕事をしているつもりになっている。

“仕事をしているつもりになっている”。。。


“つもりになっている”。。。



“つもり”。。。




この奇妙に思い出深い癒合の職場は、問題が山積みです。

何かが解決すると、何かが問題になる。

しかし、何が問題になっているのか、誰もわからない。

その問題は人間関係的な問題で、その集団のリーダーは話し合いで解決しようと懸命に頑張るのだが、結果が出るとまた別の箇所で問題が発生する。
それは大抵人間関係的な問題なので、「~さんがこういう態度をとったから」とか、「~さんがこういう発言をしたから」とか、大抵そういうことが発端にあり、みんな、「じゃあ辞める」とか不穏な行動を起こそうとする。
不穏な行動を起こそうとするから、職場の同僚みんなでその人のところに行って、あーでもないこーでもないと議論をする。
そして、“真実”という仮初めの答えを導き出しほっと一安心をする。
しかし、また別のところで別の問題が発生し、みんなでその場所に移動し問題解決のために話し合いを始める・・・その問題は人間関係的な問題で・・・以下無限ループ。。。

僕は、何が問題になっているのかまるでわからないので、同僚に問いただす。
「いったい何が問題になっているのかい?」
同僚たちは問題があるといいながらも終止笑顔だ。
よくみると、同僚たちは釣堀で釣りをしている・・・彼らの問題解決方法は、話し合いといいながら、釣りをすることだったのだ。。。。
僕は釣りの光景を見ると、なんともいえない虚脱感に襲われ、「どこにも問題はないじゃないか!そもそもそんなことでは解決はできない!」と大声を出そうとする。

が。

声が出ない。
緊張してしまったのか、声が出ない。

そして、僕はこの集団を取りまとめているリーダーのところに行き、いま僕たちが陥っているループの内容を説明しようとする。
「私たちは物事を客観的に捉えることができると信じ込んでしまっている。人事とか会社の経営とか、そうしたものは客観的な立場に立っていると錯覚している人間たちの偏った価値評価であり、彼らはより上空の視点から地面を見下ろし、“真実”という仮初めの判断を下しているだけに過ぎない。それは観念論的な錯覚だ。現実感が無い。客観的に物事をみれるという錯誤のひとつであり、現実はもっと混濁しているものだ。あなたはこの集団のリーダーであるから、この仕組みに気がつかなければならない。客観的な事実がどのように成り立っているのか、その仕組みを知らなければならない。なぜ、知らなければならないのかというと、どこにも問題が無いからだ。実はどこにも問題が無いにもかかわらず、職場の人間は自ら問題を作り出し、自らその問題を解決しようとすることで、自己充足感をあじわっている。つまり仕事をしたつもりになっている。これは、ひとつの自己表現であり、こうした生活レベルで起こっている自己表現は、客観的に人を操るやり方では解決できない。もし客観的に彼らを操作をしようとすれば、彼らが気づかずに行っている自己表現はまた別の場所で顔を出し、自らまた別の問題を作り出すだろう。だからあなたは客観そのものの仕組みを把握して、客観を支えている生活レベルに視点をおろしてこないとならないのだ。でないと、この自己充足システムからは一生抜け出せないだろう・・・。」
こうしたことを訴えようと話していると、途中で声が出なくなる。
僕は、まったく話が伝わっていないことに気がついてしまったのです。
そして、僕は、この集団のリーダー自身が自己充足システムの持つマッチポンプ式の問題自己生産-自己解決の仕組みに依存していることに気がついてしまったのです。
リーダーはこのループによってたって生きているから、このループの仕組みに気づく動機が無いのです。

誰にも理解されない孤独感と虚無感と、延々とこのループの中でむだな労力を使わなければならないという諦念の思いが入り混じった中で目が覚めます。



・・・まぁ・・・夢の話だから・・・w