目に見えるものだけが真実じゃないってこと!(Gyaoジョッキー内の鳥居みゆき氏の言葉)



この記事書いた人、バランスが取れてて好感が持てます。



>見つめるとは本来、“あなたに興味を持っていますよ”というサインなのである。なのに見つめるという行為だけを切り離して、バーチャルでトレーニングするというのはちょっと変だ。無遠慮に見つめる力が付いてしまうのはむしろ恐ろしい。



こういうことだと思います。
僕たちは「人の目を見るのが礼儀作法です」と教え込まれているけど、それって現実離れした主義や主張や思想の類なんだよね。
さらに僕らは、こうしたことが主義や主張や思想の類だと見破る能力を鍛えないように教育されているから、ちょっとたちが悪いんです。

お店の販売員とかが、(おそらく教育されているんだろうけど)必死にこっちの目を見て話そうとしてくるんだけど、なんていうか、相手の緊張感しか伝わってこなくって、ちょっと不自然なんです。
そうした不自然な感覚も無視して視線を求めてくる人なんて、ほとんど不気味な異邦人みたいに思えてくる。

人は機械じゃないんだから。。。




視線って出来事って捉えることができそうです。

人と人の間に起こる出来事の一つだといえそうです。

出来事なんだから、その日の雰囲気によって視線が成立するときや成立しないときがあって当然です。

疲れてるときは視線を振り切りたい。
視線を感じていないとできないことあるけど、視線が外れてくれないとできないこともある。
嫌いな人の目は見たくないけど、好きな人の目もドキドキしてみれなくなる時もある。

こういう雰囲気が支配的な部分で成立する出来事が視線だからこそ、自然に目が合ったときとかって、ハッとしたり、気持ちが通じたりするんだよね。


だから。

まぁ。

もし。

現実に敏感になろうとするのなら、無思慮に「人の目を見て」なんてなかなかいえないです。

人の目を見ることができるから人見知り卒業できるだなんて、なんだかねぇ。

人なんだし。

機械じゃないんだから。




※参照:「間(あいだ)性。(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/49240595.html)」