アドナイ。アドナイ。
いろいろ調べてみると、なんとなくわかってきます。
「ドナドナ」も「グリーングリーン」どちらも“不在”をテーマとして扱っているということです。
「ドナドナ」では、子牛が市場に売られてしまう。
肉牛か乳牛かはわかりませんが、売られてしまう。
きっと、死んじゃうってことなんでしょうけど、死ぬと直接書いてないから、死ぬかどうかは読み手の類推に任せられるわけで、文章のうちから読み取れるものは、子牛が市場に売られて、その子牛はこの世にいなくなる可能性の内側にあるということ。
つまり、子牛は不在の可能性に縛られている。
で。
この歌は“翼があったのなら、楽しい牧場に帰れるのになぁ”ってところで終わっているってことは、帰れるかどうかはわからない不在の不安のみを歌っているってことでしょう。
肉牛か乳牛かはわかりませんが、売られてしまう。
きっと、死んじゃうってことなんでしょうけど、死ぬと直接書いてないから、死ぬかどうかは読み手の類推に任せられるわけで、文章のうちから読み取れるものは、子牛が市場に売られて、その子牛はこの世にいなくなる可能性の内側にあるということ。
つまり、子牛は不在の可能性に縛られている。
で。
この歌は“翼があったのなら、楽しい牧場に帰れるのになぁ”ってところで終わっているってことは、帰れるかどうかはわからない不在の不安のみを歌っているってことでしょう。
「グリーングリーン」は、パパがどっかにいっちゃう。
きっと、死んじゃうんだろうけど、歌詞には“死ぬ”と直接書いていないから、死ぬかどうかは読み手の類推に任せられるわけで、文章のうちから読み取れるものは、パパはどこかに行かなければならず、そして二度と帰ってこれないということ。
つまり、パパは不在の不安から逃れらない。
で。
この歌は、人には不在の可能性があって、そこから逃れられないのだけれども、前向きに生きていこうみたいな感じがある。
きっと、死んじゃうんだろうけど、歌詞には“死ぬ”と直接書いていないから、死ぬかどうかは読み手の類推に任せられるわけで、文章のうちから読み取れるものは、パパはどこかに行かなければならず、そして二度と帰ってこれないということ。
つまり、パパは不在の不安から逃れらない。
で。
この歌は、人には不在の可能性があって、そこから逃れられないのだけれども、前向きに生きていこうみたいな感じがある。
不在に対する向き合いかたは、「ドナドナ」と「グリーングリーン」はそれぞれ違っているけれど、テーマとしては同じです。
で。
夜は不安で、丑三つ時は不安で、「ドナドナ」は不在で不安で、「グリーングリーン」も不在で不安ってことは、どれも同じ不安っぽいから、“粋”なのかどうなのか微妙になってくる。
不安ばっかりしつこくでてくるから、ちょっと粋じゃないなぁ。。。
じゃあ、いったい僕は丑三つ時にどんな歌を歌えばいいのだろうか?
案として・・・。
・・・そして、最後の可能性として、“何も歌わない”ってのはどうだろうか?