反応アザトース。

秋葉原の彼についてです。

多分、彼は今とても幸せなんです。
人をたくさん殺して、世界と関わりを持てたから、彼はとても幸せなんです。

僕は彼に憤りを感じて、彼は自分で自分の腹を開いて欲しいと思っています。
しかし、怒りや憎しみを彼にぶつけると、それは彼の思うつぼです。
僕は彼と関わりを持ってしまうことになる。
彼の自己表現と関わりを持ってしまうことになる。

もし、彼を責めたいのなら、必要なのは形式を武器として振りかざすことです。
おそらく、彼に対して有効なのは、形式です。
冷徹で無慈悲な形式です。
彼の自己表現がまるで意味をなさないような形式です。
もはや僕たちの手を離れて、自立して存在している観念の総体、社会機械の形式です。
個人を飲み込んで、まったく世界との関わりを断ち切ってしまうような、冷徹で無慈悲な、化け物じみた社会機械のもつ形式です。

つまり、法律や制度です。

そうした既に在る形式に活躍してもらって、無慈悲に無常に、彼の世界との関わりを断ち切ってもらいたいと思います。

被害者は無念です。
なんだかもう、無念で無念で、彼らの死に対して僕はどう表現していいのかわからない。

なぜなら、たった一人の青年の、自慰行為的なくだらない自己表現に巻き込まれて死ぬなんて、どう考えてもやりきれない。

戦争で死ぬのはまだ意味があるのかもしれない。
そこには実在化している世界像の対立や、主義や主張や理念や宗教や文化の対立が見て取れる。
死ぬのは嫌だけど、人との関わりあいの中から生き死にを決めるような死に方だ。

でも、この事件はそうじゃない。
この事件の被害者の無念さは、一人の青年が部屋の中でする自慰行為のようなパフォーマンスによって命を落としてしまったってところです。

そんなのないよ。

赤の他人の自慰行為に付き合って死ぬなんてありえない。


彼は世界と関係を持つことを望んでいて、その願望は成就された。
だから、被害者の無念を晴らすためには、社会機械の力を借りて、冷徹に、無常に、彼を裁いて刑を与えて、社会との関わりを断ち切ることにある。


しかし、さらに憤りを感じるのは、僕は彼が世界に存在していることを知ってしまったということです。
この文章を書いているこの僕は、直接彼にあっていないけれど、強引にも彼の自己表現に巻き込まれて、憤りを感じ、関わりを持たされてしまっている。

これが腹立つ。

僕は、僕の中にある機械的な形式が、彼との関わりを断ち切ってくれることを望みます。


※参照:「アザトース(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/33217518.html)」