人格懐疑。

今。

ふと思ったんですが・・・。

僕たちは、あたかも自分の外側に他者がいて、その他者はそれぞれ個性的な人格を持っていると思いこんでいるけれども、それって嘘なんじゃないんでしょうか?

錯覚なんじゃないんでしょうか?

他者の人格って、それを認識している自分自身の中で作り出されているんじゃないんでしょうか?

つまり、最初から個性的な人格を持った他者が存在していて、それを僕たちが認識しているのではなく、認識している“私”自身の中で、“あぁ、この人はこういう人格なのだなぁ”って、作り上げているってことです。

なんでこんなことをいえるかというと、他者に持つイメージって、人それぞれ違うからです。

“ありえねー。”って感じの人と好んでお付き合いをあする人もいるし、せっかちな人を好む人もいます。
おせっかいな人にやさしさを感じる人もいれば、無口な人に暖かさを感じる人もいます。
絶対自分は一緒にいたくないなぁって思える人でも、ほかの人からみるとすごい人格者と取られているのかもしれません。

こうしたように、他者を認識しているその人の中で、人の人格とか性格は作り上げられていくのかもしれません。
そう捉えると、僕たちは視線の奴隷なのかもしれません。
他者の視線にさらされて、人格的な評価を受けることで、相対的に個性は形づくられていくのかもしれません。
ということは、“私はかくあるべき”と、自分が自分自身の中で一つの理想的な自己像を作り上げてしまうというのは、まるで他者の視線を無視するような、自分勝手で一人よがりなことなのかもしれません。

まぁ・・・だからどうだってこともないんですが・・・なんとなく・・・そんな感じです。