笑う瞑想法。

細野晴臣のアルバムに、「メディスンコンピレーション フロム ザ クワイエットロッジ」というのがあります。

このアルバムは僕のお気に入りです。

今でもよく聞きます。

このアルバムが出たのは、僕が高校生の頃です。
YMOが再生する少し前の頃です。
アルバムの内容としては、呪術的なアンビエントミュージックです。

当時の僕は、吹奏楽部に所属して、ユーホニウムを吹いていました。
演奏する曲といえば、ヒットしている歌謡曲やコンクールの課題曲やイベントでやるマーチとか、そういったものでした。

そうした、歌謡曲構造になれていた僕にとって、このアルバムは衝撃的でした。
明確なメロディーもなく、ロックとかにありがちな自己強化的な歌詞とかもなく、ただただ環境的で呪術的でスピリチュアル(TVショウ的なスピリチュアルじゃなくって、もっとアニミズム的なスピリチュアル)であり、とにかくかっこよかった。

こうした環境的な曲は、だいたい“癒し”的に捉えられますが、僕にとってこのアルバムは、ぜんぜん“癒し”じゃないんですw
どっちかっていうと、とても攻撃的で、ある意味パンキッシュな、解体の方向に向かっているような印象を受けました。
なぜなら、僕の中にすでに出来上がっている音楽像を打ち壊してくれるような、そんな役割を担っていたからです。

僕はこのアルバムを聞くまで、音楽は万人受けしないとならないものだと思っていたんです。
気持ち良い、だれにでも理解できるメロディーで、感動を呼ぶような歌詞で、自己強化的で、辛いときに支えになったり、アイを歌ったり、平和を歌ったり、戦争に反対してみたり、時にロックやパンクスのように反体制的であったり、そうしたものが良い音楽だと思っていたんです。
つまり、すでに出来上がってしまっている世界像(それは美徳であったり倫理であったり道徳であったり、そうした価値の群れです)を利用したり批判したり迎合したりするような、そうしたものが良い音楽だと思いこんでいたんです。

でも、僕にとって細野さんのこのアルバムは、ぜんぜんそうした良い音楽と違うんです。
すでに出来上がっている世界像とはぜんぜん別のところにあるような、そんな感じなんです。

世界像の手前にある音楽。

世界像の手前にあり意味の繋がりの中で戯れる音楽。

そんな感じがしました。

高校生の頃の僕にはそんなふうに感じられ、周りが大音響でロックとかを聞く中、僕はアンビエントミュージックを聞いていましたw
でもそれは、“癒し”を求めてとかではなく、もっとパンキッシュな意味で“解体”を求めてです。

その後、「インターピーシーズ オーガニゼーション」とか「N.D.E」とかアンビエントなアルバムを出して、「ラブ,ピース&トランス」っていうアンビエントな歌ものユニットのアルバムを出します。

さて、あれから10数年たって、今でも、これらのアルバムは僕のお気に入りです。

でも、なんだかパンキッシュな意味合いは薄れてきました。
反抗的な解体のニュアンスはほとんどなくなり、世界と距離を取るためのガイドライン的な音楽となっています。
それはもちろん、硬化していく世界像を“解体”させることでもあります。

そうしたわけで、今日も「メディスンコンピレーション フロム ザ クワイエットロッジ」の1曲目“ラフター メディテーション”を聞きながら床につきます^^