脳内評価機構。

当たり前のことかもしれませんが、僕たちは事柄に意味を与える傾向にあるようです。

頭の中に評価付与システムが入っていて、それが自動的にうぞうぞ動き出す感じがする。

そうすると、「“ほんと”ー“うそ”」の連関体が作り出されてしまう。

で、そんな感じで自動的に作り出された評価の群れは、ほとんど自然に、僕の感情や行動を規定してしまう。

評価に感情や行動が規定されている?

良く考えれば、ある出来事が起こって、その出来事に心地よさを感じるか不愉快さを感じるのは人それぞれだし、それが事実ならば、その人がどんな評価を下すのかによって、現実像はまったく変わってくる気がする。

こうした脳内評価機構はほとんど自動的に動くものだから、日常生活をするうえで、こうした評価の仕組み自身を取り上げる必要性はほとんどありません。
しかし、哲学(主義や主張や個人的な人生観を語るような意味合いでの哲学ではなくて、認識論や存在論のように、原理論としての哲学)をやったりして、現実の仕組みについて反省を続けていくと、僕たちがよって立っている評価の群れが、いかに形づくられた世界像であるのか見て取れます。

しかし、この脳内評価機構を飼いならすのは容易ではありません。
ひょっとすると、この機構は、飼いならすとかコントロールできる類のものではないのかもしれない。

というのも、僕は僕自身の中で、評価付与システムの動作を止められないんです。
ある程度論理学や現象学をやると、その価値評価が現実からつかみとられたものか、それともまったく現実に根拠を持たない、観念上のものか、なんとなく理解できます。
僕もまだまだ勉強中ですが、僕の中でつくられる評価の群れが、事実からつかみとられたものなのか、それともまったく類推的なものなのか、ある程度敏感になることができます。

そして、ここ最近、僕の身の回りでいくつか仕事の体制にまつわる出来事があり、その出来事は良い出来事であるにもかかわらず、僕の中の脳内評価機構は自動的に駆動し、「“ほんと”ー“うそ”」の評価が自動的に働いて、“うそ”の判断を下そうとしてしまうのです。
その評価が、極めて個人的なものであり、現実からつかみとられたものではなく、単なる“うそという信念”でしかないということは良くわかっているのですが、僕は自動的に「“ほんと”ー“うそ”」の価値を形作り、“うそ”という判断を下そうとしてしまいます。

で。

この「“ほんと”ー“うそ”」に囚われると、どこかに真実の世界があるだろうと錯覚してしまいそうになる。
仕事の体制にかかわる出来事も、それを実行してみないと結果なんてわからないにもかかわらず、どこかに真実の仕事のやり方があると思い込んでしまう。

で。

今の僕は脳内評価機構の奴隷状態にあります。
(っていうか、奴隷でない人はいるのだろうか?)
不健康な信念(現実から基付けられていない“うそ”という信念)にもかかわらず、それに行動を支配されそうになる。
ほとんど被害妄想的な感情や焦燥感にかられて、次にどんな行動をして良いのかわからなくなる。

多分これから僕は、この不健康な信念の論駁を試みると思います。

その臨床実験は無駄に終わるかもしれませんが、まぁ、それはそれで良しとします。