目に映るものだけが真実じゃないってこと。

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エイプリルフールに僕はどんな嘘をついたのだろうか?

少なくとも、意識的についた嘘は一つもありません。

意識的でない、自然についた嘘ってなんだろうか?

僕は知らず知らずのうちに、いろんな嘘をついているのかもしれない。。。






たとえば。。。






・・・僕は元気いっぱいに生きている・・・


とか。


・・・幸せすぎる・・・


とか。


・・・快活である・・・


とか。


・・・充実感や生き甲斐を感じながら、つらいことにもへこたれず、心地よい仲間に囲まれて、健やかな生を満喫している・・・


とか。


・・・心の底から、“人生の勝ち組だ!”と思えた・・・


とか。


・・・ごはんがおいしい・・・


とか。


・・・人がやさしい・・・


とか。


・・・他者が僕に抱く好意・・・


とか。


・・・桜がきれい・・・


とか。


・・・空気がおいしい・・・


とか。


・・・星がきれい・・・


とか。


・・・他者の視線・・・


とか。


・・・世界が在る・・・


とか。


・・・この世には倫理観や道徳観が存在している・・・


とか。


・・・他者がいる・・・


とか。


・・・帰るべき田舎が在る・・・


とか。


・・・人が好き・・・


とか。


・・・ビールがおいしい・・・


とか。


・・・かっぱ寿司の“あぶりバター牡蠣”がおいしくてもう一度食べたい・・・


とか。


・・・両親の愛情・・・


とか。


・・・友情・・・


とか。


・・・中学校3年生のとき、吹奏楽コンクールで“斑鳩の空”を演奏して金賞を受賞して、僕にとって小・中・高校の中で、あの年の夏は充実していたし、一番心に残る思い出であり、高校に入ってからの無気力的学生生活に比べると、とても良い経験であり、友人の大切さや、演奏しているときの一体感や、みんなで何かを成し遂げるときの恍惚感のようなものを始めて体験したのかも知れないと、今思えば感じることができて、今日みたいな昼下がりに職場の外を歩いていると、ふと、近所の中学か高校か、グランドで演奏する吹奏楽部の管楽器の快活な音色が、僕の中にある学生生活の健やかな履歴を触発して、なんともいえないわびしい期待と懐かしさと、“あぁ。あの吹奏楽の子たちも、今年の夏はコンクールに出るのだろうなぁ。できることなら、人生の中で大切な多感な時期に、心に残るような良い体験をしてもらいたいものだ。そして彼らが僕と同じくらいの年になったときに、グランドで演奏する学生の音色を聞いて、自分の履歴に誇らしさと愛情を抱くことができたのなら、それはすばらしいことだ。確かに歴史哲学や啓蒙主義的な世界の見方は、人によって作られた世界像であり、この世はランダムな意味のつながりなのかもしれないが、“グランドに響く音色に抱く心地よい感覚”のように、言葉にできないものが次の世代につながっていくのなら、そうしたビミョーな感覚の伝承こそが、歴史を紡いでいくということなのかもしれない。それは、僕たちが恒久平和や進歩した未来を目指すなんていう、お気楽な予定調和的な歴史を作りだすなんてこととは全然レベルが違う、生きられた歴史の伝承と表現できるのかもしれない。それにしても、僕はユーホニウムを吹かなくなって10年以上経つが、今でも音は出るのだろうか?”という思いにとらわれ、ふと、ヴァジングをしてみて、その姿を職場の同僚に見られて怪訝そうな顔をされて、少しだけ気恥ずかしくもあり、微笑ましくもあり・・・・。


そうしたことが・・・

すべて・・・

僕が知らず知らずについた“嘘”だったとしても、それはエイプリルフールだから許されるんです。

さて。

僕は一体、誰に許されるのでしょうか?




写真は、2年前の4月3日に撮影した、近所の桜です。