愛のゆえん。

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以下の文章は、友人に当てたメールであり、それは、2003年にリメイクされた、映画「ソラリス」感想です。
もう5年も前の文章だから、今の僕の表現とはずいぶん違っているけど、見返してみたら面白かったので、乗っけてみます。


03.07/14 「愛のゆえん。」
ソラリスのテーマは、愛や生や死といったものではなくって、その”ゆえん”となっている人間性そのものかもしれないです。 

それは、“ソラリス空間”(もしくは“ソラリス地平”)においては、死ぬことや生きることや道徳や倫理や反道徳や反倫理が、まったく渾然一体となって通用しなくなっているからです。

で、そうした“現実らしさ”(日常性や常識性)として了解されている部分がまったく通用しない場所では、どんな事柄が”意味になる”として成立してくるのでしょうか?

ソラリス空間で明るみに出されてくる事柄は、私たちにとって死ぬことや生きることや道徳や倫理や反道徳や反倫理が、“そうしたもの”として妥当されてくるその根源なのではないのでしょうか?
その根源って、勇気を持って共通了解用語で表現すると、“人間性”ってことになると思います。
(でも、“人間性”だと、なんか道徳的なニュアンスがあって、実はしっくりきてないです。)
その根源って、実はソラリスに行かなくっても、僕たちはすでに持っています。
しかし、自然的な状態では、そうした“感じ”は隠されてしまっています。 

では、なぜ隠されてしまっているのか?

そのヒントはゴードンにあります。
彼女はソラリス空間で、泣きながら、我々に“現実らしさ”として了解されている部分を振りかざします。

泣きながらです。

彼女は、意志の力で“現実らしさ”を利用し、それに事態を規定しようとするのです。

泣いているにもかかわらず・・・。

前回のメールで“現実らしさ”については述べましたが、“現実”について真摯な態度で接してみると、そこには二つの部分が渾然一体となっていることがわかります。

ひとつは“現実らしさ”で、もうひとつは“現実そのもの”です。

で、“現実らしさ”って客観のことで、僕たちが自然に利用したり振りかざしたりするような部分です。(例えば赤信号で止まるような感じ。100m走でスタートの合図を聞いたら走り出すような感じ。 つまり共通了解のルール。)

で、問題は、こうした“現実らしさ”が実在化してしまうってところにあるのです。

真摯な態度で“現実らしさ”のゆえんを探ると“現実そのもの”に行き着かざるをえず、実在化してしまった“現実らしさ”って、“現実そのもの”からずれてしまっているようなのです。

で、注意深くしないと、“現実そのもの”が“現実らしさ”によって隠されてしまうって事がよくあります。
(多分、(福祉の分野でもそうだけど)問題になっている事柄の「本質」的な部分って、こうした逆転現象にあると思う・・・。)

でも、僕たちの日常には“現実そのもの”が端的に現れてくる場面があります。

それはどんなときでしょうか?

ひとつは死ぬことに直面したときで、ひとつは恋愛を経験したときです。
(あくまで象徴的な場面です。注意深く接すると、“現実そのもの”が開示されている場面ってもっといろいろあります。例えば、好きな曲を聴いたときとか、ご飯がおいしかったりしたときとか。)
そうした経験って、決して因果の系列に分節できないような、それでいて、そうした経験をした本人にとってはとても“意味になる”ような、そんな至高体験です。

で、話はゴードンに戻りますが、彼女は泣いているのです。

それは、決して僕たちが彼女の外側に立って解釈を加えることが“意味にならない”ような、そんな、彼女にとっての“現実そのもの”なのです。
にもかかわらず、彼女の中には意味の実在化による逆転現象が起こります。
なぜなら、意志の恣意的な力で“現実そのもの”をねじ伏せてしまうからです。 

レイアを消滅させたことは、実在的な意味から見れば、殺人ではありません。
だがしかし、“現実そのもの”(非因果的必然な部分)から見れば彼女はれっきとした人殺しです。
意味の世界では、レイアは人間だからです。

でも、だからといってゴードンを責められるかといったらそうともいえません。
なぜなら、レイアを消滅させるということには、人間としてのレイアの“在り方”がかかってくるからです。

ここからは、注意深く接しないと単なる“解釈”に陥って、真摯な態度にはならなくなっちゃうので気をつけないといけないのですが・・・。

もし、レイアが“私は人間ではないから消滅したい”と思ったのならば、それは逆転現象でしょう。
しかし、彼女の“在り方”として彼女が消滅を望んだのなら、それも一つの可能性(現存在し得ないという可能性)といて、大いに“ありうる”です。

もし、ゴードンが“彼女は人間ではないからそこに現存在してはならない”としたのなら、それは逆転現象でしょう。
しかし、レイア自身の“在り方”を受け取ってそうしたのなら、それも“ありうる”のひとつなのです。

でも、結局ゴードンは意識の力を利用して、ソラリスを脱出してしまいます。
っていうことは、あのソラリス空間を脱出するすべは“現実らしさ”に屈服する以外にないのでしょうか?

そう考えるとやりきれない感じがします。

一つの文章として成立させることがうまくいかなくって、とてももどかしいです。いつかちゃんと整理して、”最初から掴まえたもの”にしたいです。
では。