地球にいる猫。

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どうやら、猫がいない。

僕たちは、客観的に物事を捉える能力を持っているようだけど、“客観的に物事を捉える能力”とはどういうことか?、その能力の内実を把握しないまま、その能力に操られている感じがします。

イメージを多重化して、現実に奥行きを持たせることはできるけど、その奥行きに現実が支配されてしまいます。

象徴的な表現ですが、例の9・11のとき、破壊された高層ビルの上には、理念が渦を巻いていました。

僕たちの生き生きした現実から掴まれた多重化されたイメージの総体、つまり“理念”が、生き生きとした現実から遊離して、ついにはたくさんの人を殺すことになってしまいました。

そのあたりから、地球にいる猫は、人間に見限りをつけ、不在となりました。

例えば、僕と、僕を取り巻いている道具のつながりと、僕を取り巻いている他者のつながりは、不断の意味で繋がっています。

理念の根っこには、必ず“雰囲気”や“感じ”が支配的な領域があります。

猫は、この領域を好む。

しかし、客観的な視点が有利になり、その視点が生き生きとした現実から離れてしまい、“雰囲気”や“感じ”に対して拘束力を持つようになると、もう猫は嫌な気分になって、どっかに行っちゃいます。

9・11以降、お気楽な反戦ソングが大いに売れて、音楽会社は、まるで戦争時に活躍する武器商人のようにぼろもうけをしましたが、一つだけ好きな曲があります。

それは、NHKの「おかあさんといっしょ」で流れていた「地球ネコ」って曲です。(作詞・作曲平沢進

「地球ネコ」の歌詞は、何かを否定したり肯定したりする歌詞ではないんです。
反戦ソングみたいにイデオロギーを売り物としていない。
そこまで傲慢でおこがましくはない。
そうではなく、“雰囲気”や“感じ”が支配的な領域で活躍する、“地球ネコ”がいることと、その“地球ネコ”がいなくなってしまったことを嘆いている、ただそれだけの歌なんです。

なんていうか、ある意味、とても強烈で、高層ビルの上空に渦巻いている理念の群れを解体してしまうようなパンキッシュな意味を持った曲だと感じました。

もちろん、作者にそうした意図があったかどうかはわかりませんが、僕はちょうど、理念と現実が遊離していくことに問題を感じていた時期であったので、この曲とこの曲の歌詞に、僕の持っている意味をスムーズに付与することができました。

さて、ラヴクラフトはネコが好き。
ラヴクラフト怪奇小説家でアウトサイダー
「地球ネコ」はネコの歌。
僕は昨日、小さな黒いネコの夢を見た。
僕の仕事は、客観化された理念の総体である“社会性”と、“雰囲気”や“感じ”が支配的な領域で活躍する“ネコ”の狭間で右往左往して頭を抱えることです。

で、僕もネコが好き。

何らかの理由から、理念を懐疑の視線にさらそうとするものは、気まぐれなネコに魅了されるのかもしれません。