善意の支配者。

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僕はまだまだ未熟で、成長していくためには達成すべき課題が幾つもあるんですが、ある個性的な人たちは、自分自身の成長に関わる未熟さを、少しだけ他人を巻き込む形で自己表現しようとします。

そうした人たちは、例えば、リスカしたりアムカしたり、薬を必要以上に飲んだりと、自分を傷つけることで世界への自己表現を試みます。

それははた迷惑なものだし、時にはホントに死んじゃうこともあるからやらないほうがいいんだけれど、自己表現という観点からは成立していると思えます。

つまり、彼らはそうしたはた迷惑な自己表現以外にやりようがないからそうしているわけです。
そうした生き死にを賭けた行為は非常に強力で、簡単に親しい身内や友人を操作することができます。

もちろん、操作されて巻き込まれたほうはたまったもんじゃないし、その人の偏った自己表現の為に、破滅してしまう人もいるでしょう。

しかし、気をつけなければならないのは、その行為はそれ以外にやりようがないからやっているというところで、日常平均的な人間が、悪意をもって他人を陥れるような、そうした行為とはニュアンスが少し違っているというところです。

ですので、自分の思いをうまく他人に伝えるための自己表現の方法を、もっとスマートでロジカルでテクニカルでクリティカルで風流なやり方で身につけることができれば、彼らは成長するための余地を獲得することができます。

このように、彼らは自分自身の人格的な未熟さから行為に及ぶわけですが、世の中にはもう少しやっかいなやり方で他人を操作しようとする人たちがいます。

彼らは、良い人です。
彼らは、価値を操ります。
彼らは、抽象的で実体のない、定立化された価値の群れを操ることで、他人を操作しようとします。

彼らの武器は、“善意”です。

したたかにも、彼らは僕たちの文化的な背景の中に成立している“善意”を人質に取ることで、他人を操作しようとします。

“人の役に立つことは最高の美徳だから。”と、善意を盾に無理難題を他者に押しつけます。
彼らは善意を武器にしているので、彼らの要求を飲まないと、こちらが悪人になってしまいます。

だからたちが悪い。。。

次の場面を思い浮かべてください。
それは、お店です。
レジで、客と店員がやりとりをしています。
客は自分のほしい物を店員に伝えたいようですが、なかなか言葉にまとまりません。
ここに通りかかった第三者が、“人の役に立つことは最高の美徳だから。”と、この客の思いを店員に伝えてしまったらどうでしょうか?
確かにこの第三者は、全く正しい、たたえるべき行為をしているのですが、それと同時に、この客が、“たどたどしい自分の言葉で思いを相手に伝える。”というスキルを獲得する場面を奪い取ってもいます。

手引き書の彼(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/30857215.html)にも同じようなことが言えます。
手引き書の彼は、良いことしか言いません。
彼の世界は硬化していて、手引き書に従わない人たちはみんな悪人になってしまいます。
現実的には理の通らない要求も、彼にとっては善意の行動だから、その要求に従わない人たちは、みんな悪者です。

リスカやアムカや過量服薬をしてしまう彼らには、不条理な現実をもがき苦しみながら精一杯生きようとしている姿が垣間見れて、なんていうか、“辛いんだろうなぁ”って思えるけど、価値を武器に他人を操作しようとする“善意の支配者”たちは、もっと深刻な人格的な未熟さみたいなものが感じられて、げんなりしてしまいます。。。

“善意の支配者”に出会うと、諦念感と絶望感と嫌悪感と嘔吐感に苛まれてしまいます。。。

瘴気に当てられるって、こういうことかも知れません。

とりあえず、“善意の支配者”にであったら、僕は逃げます。
卑怯者だと罵られようが、僕は彼らに操作されるのが嫌だから、徹底的に逃げます。。。

もし、そうした“善意の支配者”的な人たちと対峙しなければならない場面になったら、操作されないように、ロジックとフェノメノロギーを駆使して、この世の理が最適に駆動する形式を確保する必要があります。

そうしたわけで、業務上のスキルを鍛えるためにも、ロジックとフェノメノジーをやることにします。