世界の秘密。

2006/03/09 (木) 22:53に、ある友達に送信したメールの文章です。





ニコラ・テスラっていう発明家がいました。

天才科学者なんだけど、どっちかっていうとMAD系の科学者でもあり、殺人光線や電力無線伝送とかの発明があるそうです。

中でも、テスラタービンっていう永久機関の発明構想があったそうだ。

そうしたテスラの研究と関係があるのかどうかはわからないが、ヒラサワの曲の中に“世界タービン”ってのがある。

世界タービンの世界像は次のようなもの。

世界がこのように安定しているのは、キチガイとしてアカデミズムから排除された科学者が開発した、“世界タービン”という機関ががもくもくと働いているから。
世界にはいろいろな出来事があって、その中には、ともすると僕たちの夢や空想や想像や何かをめがけようとする力を削ぎ落としてしまうようなものもあるけれど、とにかく世界タービンが回っているから大丈夫だっていうお話。

曲中の女性ボーカルは言う。
「あぁ大丈夫よ、タービンは回るわ。」

そうした曲が“世界タービン”です。

で、今回世界タービンのプロモーションビデオを見ることができたんだけど、これがすごい。
すごくキチガイっぽい。
空想が押し寄せてくる感じがする。
ヒラサワは、白くて機械のついた、りりしいスーツで登場して、すごいまじめな顔で笑顔一つなく、眉間にしわを寄せつつ例の歌声で歌うんだけど、なぜか、ネギを片手にもってうたったり、生の魚を耳に当てて会話をして見みたり、人参を掲げたり、ミニカーを掲げたり、電球を目を見開いて見つめたりします。
しかも、けっこうハイテンションな感じで、目を見開いて歌う姿は尋常じゃない。


心にはいろんな心象があって、そのつながりは人それぞれ独自なものがある。
りんごがおじいちゃんになったり、空が母親だったり、乾電池が殺人者だったりする。
・・・僕にとっては、活字が老人になる。。。
で、このヒラサワ演じるキチガイ博士は、こうした心のいろいろな像を、つなぎ合わせるような役目をする発明家なんじゃないかなって感じました。
一見脈絡のない、ネギと人参を適切な心の位置に配置する科学者、それは、世界タービンっていう秘密の機関に象徴される。
世界タービンが起動しないと、世界は味気ないものとなり、りんごは食べ物でしかなく、空は青色でしかなく、活字は概念でしかなくなってしまう。
そうなると、世界は大丈夫じゃない。
つまらない。
だから、この機関は駆動しなきゃいけない。

ヒラサワの中にある“この世の安定のために人知れず作動する何か”ってイメージは、その後も続いていきます。
アルバム『救済の技法』では、この世の片隅で人知れず庭の手入れをする職人のイメージが描かれ、この世が安定しているのは、彼の仕事のためとなります。

“みんなが知らないどこかで、知らない間に駆動してしまっている何か”っていうのは、現象学で言うと「受動的綜合」という表現になる。
僕たちは、意識を能動的に動かそうが動かすまいが、すでに世界を意識してしまっています。
何かを認識したり判断を下す前に、意識に顕在的な意識を意識する以前に、すでに知らずのうちに、世界を意識してしまっている。
仮に、ボケーっと目を開けて、何も意識していない状態にしても、すでに光景が風景として認識されてしまっている。
これは、他者理解に関しても同じで、客観科学が成立する以前に、僕たちは他者との人格交換的な場面を生きてしまっている。
僕たちが脳の機能を科学として理解する以前に、すでに雰囲気や感じといった情動的な場面を生きてしまっている。
こうした、すでに意識する前に事が起こっている、事発的現象のことを、現象学では受動的な綜合といいます。
で、実は僕たちが科学ってっていう世界像は、この事発的現象を覆い隠す傾向がある。
まず最初に受動的な綜合があり、そこから科学が世界の見方として作り出されたにもかかわらず、科学は、あたかも僕たちの意識とは関係なく最初から存在しているように振舞います。
最初に科学があって、その次に人格交換的な背活の場面があると思わせ、科学=真実の世界、生活世界=虚構の世界と、思い込ませる力がある。
なぜ科学がこんなに強力な世界観かというと、それが近代以降人間が鍛え上げてきた理性能力に依拠しているから。
だから、アカデミズムの科学者は心と身体を引き離す傾向にあり、結果として世界を意味化する世界タービンを停止させようとしたり、庭師を殺そうとする。

そこで、ヒラサワは警鐘を鳴らすわけだ。

「このままじゃあ世界が平坦化しちゃう。僕たちは正しい世界や悪い世界、真実の世界や虚構の世界といった、”世界像”にとらわれて、生き生きとした世界、個人個人それぞれの人にとっての世界を生きることができなくなってしまう。私は主義者や思想家ではないので世界を変えることはできないが、音と映像と言葉(つまりメディア)を使って、瑞々しい意味のネットワークを掘り起こすことができる。それは、日常からはキチガイとして除外されるかもしれないが、この世を生きるためのアナザーゲームであり、知恵であり、工夫の一つだ。」

ヒラサワはこうした無言のメッセージ語っているように思える。
哲学の世界でいえば、シェリングホワイトヘッドのように、自然を不断に生成の下にある生きた相関系と考える、有機体論的自然観に似ている。

世界タービンはもう13年も前の曲だけど、このランダムな意味のネットワークを開示していくさまが、統合が失調していくような危うさでもあり、若々しくもあり、とても面白かった。
ちょっと勇気付けられた感じがした。




・・・2年近く前の文章なんで、稚拙な感じがするけど、おもろいのでのっけましたwww