“ハレ”とか“ケ”とか“いろいろ”とか。

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ハレとケっていいますが、そのことを理解するための手掛かりになるかも知れません。。。


それは、曲に関係があります。

僕たちは、つぎつぎと新しい曲を求めるんですが、そのことには意味があります。

僕たちは曲を聴いていると、曲に意味を付与してしまいます。
そのときに起こった体験的な出来事に対する意味を、そのとき聴いている曲に与えてしまうんです。
多分この付与は、とっても受動的なもので、意識の恣意性でコントロールできるようなものじゃないです。
そして、この、曲に対する意味付与は、自分の中にある過去の地平の中に次々と沈殿していきます。
なので、特定の曲を聴くと、それにまつわる地平に沈殿している意味の群れが触発されて、現在に到来します。
意味が大きくなりすぎると、単なる曲として聞いてられません。
なんていうか、重苦しくなってくる。
いろんな意味が押し寄せてきて、聞いてられなくなっちゃいます。

なので、人は、新たな意味付与ができるまっさらな器を求めて、新しい曲を求めます。



ハレとケって表現があります。
聖と俗とか、非日常と日常とかっていわれますが、何故この区別をするのか理解するためには、どうやら、意味付与と触発についての話が参照点になりそうです。

例えば、お気に入りの曲があります。
もの凄い大切な曲です。
もう、凄くって、“心の友”って呼べるような信頼関係にある曲です。
こうした曲は、大切にしておきたいんです。
余計な意味が付与してもらいたくないんです。
嫌いな友達に罵られたくないんです。
その曲を聴いたときは、良いシチュでなきゃダメなんです。

だから、好きな曲を聴くときは、結構気を使います。
余計な意味が僕の過去の地平の中に沈殿していかないように注意します。
余計な沈殿している意味が触発されてでてこないように、気を使います。

多分、こうした“とっておきのシチュ”ってのをしっかり確保しておきたいから、ハレとケっていう区別が必要になるんじゃないでしょうか?
ハレの場面はハレの場面として、日常に犯されないようにしっかりと区別しておくって感じです。

そうしたわけで、車に友人を乗っけたときにかける曲は注意が必要です。
不用意にハレの場面で聞く曲をかけちゃって、“なんだこの曲?変な曲?”なんて罵られた日にはもう・・・おもいっきりへこみますw

で、僕のハレの曲は、平沢進の「確率の丘」と「ハルディン・ホテル」と「フローズンビーチ」と「ライド・ザ・ブルーリンボ」と「ロタティオン」と「白虎野」と「マーメイド・ソング」とその他全部と、戸川純の「赤い戦車」と「諦念プシガンガ」と「吹けば飛ぶよな男だが」と「愛のコリーダ」と「カウンセル・プリーズ」と「おしまい町駅ホーム」とその他全部と、テクノミュージックとかエレクトロミュージュックとかいった、この世と戯れようと努力している人の曲全部です。