訓戒の花。

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僕の車のダッシュボードには、蓮の花のオブジェが飾ってあります。

粘土でできたクレイモアで、ネット通販で購入しました。
本当は白い蓮の蓮の花が欲しかったんですが、それは売り切れだったんで、赤色の花で我慢しています。
こじんまりしたジオラマ感覚がなんとも心地よく、見ていて気分が和みます。


だがしかし、蓮の花は不幸な花です。

蓮の花は、隠蔽の不幸に見舞われています。
蓮の花は、ある理由によって隠されてしまっています。
蓮の花の持つ、生き生きとした現実的な美しさは、多重化され実体化された意味の群れによって、脅かされています。


僕たちは、蓮の花の持つ宗教的な意味合いを知っています。
例えば、泥にまみれた沼地の中で凛として気高く咲く蓮の花の姿は、俗世の欲にまみれずに清らかに生きていく様を連想させます。
そのイメージは仏教的な世界像の中にも表され、蓮華の上で瞑想する釈尊の姿であったり、不浄なこの世に彼岸にある、極楽浄土の象徴であるとされています。

僕たちは、僕たちの中に既にある“蓮の花イメージ”から、蓮の花を見たときには、なにか、“逆境の中でも、きれいな花を咲かせるように頑張っていこう。”的なありがたみを連想しがちです。

これはこれでどこにも問題ないですし、真っ当なことなんですが、ただ一点だけ気をつけなければならないことがあります。
それは、こうした“蓮の花イメージ”が蓮の花の持つ“生き生きとした現実感覚”を隠してしまっているということです。



かなり前の話です。
僕は公園を歩いていました。
公園には池があります。
そして、この池には蓮が咲いています。
でもこの蓮の花、汚いんです(笑)
もう、朽ちかけてボロボロなんです。
そこに、小さな子供が母親と通りかかりました。
子供は蓮の花を指差して語ります。
「ママ、あのお花ボロボロで汚い。」
母親は、蓮の花を罵った子供に対してありがたい蓮の花のエピソードを語ります。

実はこの瞬間、母親が僕たちのもっている“蓮イメージ”を子供に植え付けたこの瞬間が、現実隠蔽が行われた瞬間です。
子供が蓮の花に感じていた、 “なんだかボロボロで汚らしい花”という直接的な現実感覚は、僕たちの持っている蓮の花に持っている公共的なイメージで犯され捻じ曲げられ、隠されてしまいます。

もし、この子供が今後、汚い蓮の花を見たときに、その花を“汚い花”と感じることができなくなってしまったら、どうでしょうか?

逆の視点から、もし、“蓮の花イメージ”に規定されてしまっている人が、池に咲いている蓮の花を見て、“きれいな花だ。”と口にしたとして、その人は本当に蓮の花そのものを見てきれいと感じているといえるのでしょうか?

蓮の花の持つ観念を見つめて“きれいな花だ。”と言っている可能性はないでしょうか・・・。


・・・別にそれでも良いっていえば良いんですが・・・何か、現実の持っている多様性とか幅広さとか奥行きが、奪い取られていっているようで、気分が悪くなりました。。。



さて、僕はメガネをかけています。

僕自身、メガネは好きで、メガネは積極的にかけていく方向で生きていこうと思っているんですが、先日、面白い出来事がありました。

メガネをかけて仕事をしているときのことです。
これまであまり話をしたことがない別の部署の人と話をしているときです。
その人はどうやら、僕のことを理論的な人間だと見ているようです。
僕のことを理論を信仰し、理論の内に決まりきった判断をする人、と見ているようです。

その人は言います。
「世の中は理論ばかりではないよ。本の中に書かれていることばかりではないんだよ。」

・・・ちょっとまってください・・・w・・・僕はその人とはほとんど初対面で、僕がどんな人間でどんな考え方をするのか、ほとんどその人に見せていないはずです。

っていうか、僕は馬鹿でくだらない人間です。
一日に78回はエロいこととか考えるし、仕事中隙を見てはトイレに閉じこもって仮眠を取ろうとするし、携帯がウザい時は容赦なく電源を切ります。

にもかかわらず、その人は僕を、客観科学を信望する形式的な人間だと決め付けて話しているのです。


どうやらメガネをかけていると、知的で頭が良くて、客観的な知識が豊富で、四角四面で物事を理論的に考える人のように見られるようです。
その人は、その人の中に既にある、“メガネをかけて痩せ型の人間は、客観科学を信仰する、頭の固い人間である。”という“メガネイメージ”に捉われて僕に話しかけてきます。

その人は、その人の日常を彩っている、その人自身の中にある価値観にあまり敏感ではない様子です。

その人は、僕という人間そのものと会話をしているというより、僕のかけているメガネと会話をしているようでした。

それはそれで、ひとつの生き方なので別に問題はないんですが、その会話の後で、某自己啓発セミナーへ体験受講することを勧められ、後で、そのセミナーのことをネットで調べてみたら、結構いろんな人が金銭的な被害にあっているような団体で、なんともいえない気分になりました。。。


・・・価値観に惑わされて、自分で考えることが阻害されている・・・っていえば言い過ぎかもw




先日、三木聡監督の「ダメジン」って映画のDVDを購入し、今日は休日だったので、ようやく見ることができました。

コメディーっていうか、脱力系っていうか、くだらない話の連続なんですが、とても面白かったです。

この映画の中では、主役の3人組はほぼ浮浪者だし、ヒロインはトルエン中毒だし、猫を100匹かっている爺さんとか、川に一日住んで人とか、ゲシル先輩とかホモの工場長とか、本当にくだらない人物が登場し、まったくダメな生活をします。


映画を見ていると、公共的で客観的で観念論的な定立化された意味の群れが、どんどんどんどん崩壊していきます。
ダメジン3人組は、会社で働くことよりも、拾ってきた布団で暖かく眠れることに幸せを感じます。
お金を貯めようとするんですが、働こうとはせず、全然無駄な方法でお金儲けをしようとします。
こうした姿を見ていると、自分の中に既にある意味の群れが取れていき、残るのは現実そのものです。
単純に“きれい”とか“きたない”とか“気持ち悪い”とか、そうした直接的な生き生きとした現実感です。

で、ダメジンはダメだし、ほぼ浮浪者だし、そうならないほうが良いには違いないんですが、彼らは、隠蔽された現実感覚を取り戻そうと、世界と格闘しているように感じられました。

・・・しかも意図的でなく、天然で格闘しているような・・・。




僕たち人類は、直接的な現実を観念のうちに体系化させ、多重化させてながら生きているので、気をつけないと、現実が隠蔽されてしまいます。

きっと、公共的な“蓮イメージ”に犯された蓮の言い分はこうです。
形而上学的な蓮の御伽噺なんてどうでもいいから、もっと私を直視して、私自身のきれいさや汚さを見やがれ!!」

公共的な“メガネイメージ”に犯された僕の言い分はこうです。
形而上学的なメガネの持つ意味はどうでもいいから、もっと僕自身を直視して、僕自身のくだらなさやどうでもよさを見やがれ!!」



そうしたわけで、僕の車のダッシュボードの上には蓮の花のクレイモアが備え付けてあるんですが、それは決して、蓮の花の観念論的な意味を称えるわけではなく、僕の現実が、観念や形而上のうちに落ち込んでしまわないように注意するため、戒めの意味合いがあるんです。

・・・そして、ここで僕が蓮の花に訓戒的な意味合いを付与したことで、蓮の花の生き生きとした現実感はまたねじ曲げられ、犯され、隠蔽されてしまいます。。。蓮の花は不幸な花だw
そして蓮の花は僕に向かって不満をぶつけてきます。。。
「戒めの意味なんて形而上学的なもでしかないし、そんな意味は関係ないから、もっと直接的な蓮自身を見やがれ!!」


現実を直視して凝視することは、意外と難しいのかも知れません。