Perspecive。

信頼できる職場の先輩がいます。

彼は哲学をやってるんですが、どちらかというと“生き方”を探るために哲学を始めた人です。

彼も哲学史を学んでいるので、現象学以降の現代哲学やポストモダンにかけての話は共通するんですが、多くの部分で“生き方”についての視点から語られます。

認識論から始めて現象学や哲学に行き着いた僕にとっては、そうした“生き方”についての話というのは、あくまでアポリテスオリ(後天的な。後付け的な。)な話であって、原理論からは外れてしまうのではないか?という思いもあり、“ふ~ん。そんなもんすかねぇ。”みたいな感じで聞いていたんですが、最近、彼の表現したニュアンスで、共感できる出来事がありました。

彼は言います。
「生きていくってことは、自分の中のアポステリオリな部分をいかに発展できるかってことです。つまずいて失敗して、じぶんで“あーでもない。こーでもない。”と考え抜いて、そのつどそのつど軌道修正をして、腑に落ちるやり方を獲得していくことです。お酒とかたばことか、簡単に軌道修正をかける方法はあるし、それはそれで大切なことだけど、それ以外にも、自分で考え抜いて掴み取る方法もあるわけで、そうした方法を発見できるようになるのが、より良い“生き方”です。」

こんなふうに、“生き方”を“良い生き方”とか価値観の内に定立化してしまうと、まるで主義や主張のようで、宗教家が彼岸の世界を夢想しているのと大して変わりがなくなってしまうんで、その部分は納得できないんですが、“生き方”の原理としては、“どうやってアポステオリな方法を発見していくか?”
ということになるんでしょう。


今の仕事、職種は内緒ですが、精神科の領域にかかわるものです。
で、今の僕の現状と今後の僕のあり方を考えると、やっぱり悩むわけですw

・・・もう31歳だし・・・w

今の職種は、学問的に成立していないところがたくさんあって、技法としても確立していない部分が結構多いです。
どっちかというと、他職種の寄せ集めになってる感じです。
ということは、他職種とは別のやり方で、学問的に現実から基付けていかなければならない必要があり、現実からの基付けには現象学の技法が必要です。
で、現象学の技法をきちんとやるためには論理学的な基礎も必要になるし、論理学は数学との親和性も高いわけだから、数学もやっといたほうが良いし・・・。
で、こうしたことの必要性を感じて勉強をしてみても、結局はそれが公的に通用するものでなければ、単なる独り言で終わっちゃうだろうし、そう思うと、きちんとアカデミズムに通用するように鍛えないといけないだろうし・・・。
そうなると、大学院いきたいなぁとか思うし。。。

でも、31歳だしw

お金ためなきゃなんないし。

それと同時に、こうした展望って、誇大妄想的な、自分の器にあまるものかもしれないって思いもあるし・・・。


で、ここ数日思い悩んでたわけなんですが、今日、はたと気付いたのは、結局は今後どんな現実が訪れるかは、“無慈悲なランダム性”にお任せするしかないんだろうなぁってことです。

だから、まぁ、当たり前なことなんですが、僕にできることってのは、僕の持ってる手持ちの駒の中で、出来るだけのことをしてみるってことになるんでしょう。。。

とりあえずは、仕事しながらできることやってみて、そのなかで、少しでも展望に近づけるように待機することにします。

そうしたわけで、僕の“アポステリな生き方”は“可能的な現実の諸可能性を探りながら待機をする。”というふうに軌道修正されたわけです。


明日仕事休み取れたw
うれしい!!
死ぬほど寝てダメジンになることにしますw