公園性。

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・・・公園性が不足しています・・・。


公園には“公園性”と呼ばれる独特の感覚があります。


例えば、日中社会の中で生活をしていると、公共的な目的性の内に生活することを余儀なくされます。

朝起きて車に乗るのは職場に向かうためであり、職場でPCをいじるのは仕事の効率を上げるためであり、電話をかけるのは職務をこなすためであり、職場を歩いて移動するのは次の仕事をこなすためでもあります。
同僚との会話の中でくだらないギャグを言うのも、ちょっと間抜けな行動をするのも、次の仕事をやりやすくするためという目的性があります。
で、こうした行動は、常に他者と目的を共有しながらの行動なので、公共的な目的性の中で生活していると表現できそうです。

それに対して、仕事が終わった後は、公共的な目的性の為に行動しているとはいえません。
その目的は、特殊的なものです。
自分の世界の内でしか意味がないような、とても個人的な行動です。
昨日、ウルトラマンネクサスの10巻目とゼブラーマンのDVDを借りてきて、夜中に比較的小さな音で見て、感動して涙したって、別の人に取ったら正直どうでも良いような行動です。


こうして考えると、僕たちの日常は、公共的な目的性と特殊的な目的性が癒合して成り立っているといえます。
・・・なんだかものすごく当たり前なことなんですが、日常性は直接的な現実を覆い隠してしまうという特徴を持っているので、時には、このような少し回りくどい文章で顕在化させてあげる必要があります。。。


で、公園に集まっている人たちは、その大半が、特殊的な目的性のために行動しています。
スケボーやってたり、写真とってたり、体操したり、ぼけーっと前だけ見つめたり、ジョギングしたり、ペット吹いてたり、ギター弾いてたり、歩いていたり・・・。
多くの人がその人にとってしか意味にならないような行動をしています。
しかも、公園は公共的な場所なので、特殊的な世界を公共化できるような場所なのです。

で、公園の持つ“公園性”とは、こうした、その人しか意味を持たない世界の内を垣間見れる場所だというところです。


・・・最近、自分のもつ特殊性を公共化できずにいました。
それは、公共的な目的性に操られた行動しかできなかったってことです。
だから、今日は公園に行って、いろんな人の特殊性を見物したり、自分の特殊性を解き放ってあげました。

そうしたら、偶然にも写真のような綺麗な光景にも出会うことができたので、少しうれしかったです^^

今日の偶然性のおかげで、自分の中の公園度が“7”から“59”に増えました。
“10”以下になったら、また公園に行きますw