粋な計らい・・・。

仕事でトラブルw


ある人と協力して業務をこなさなければならないのだけど、お互いに仕事上のゴールをズレて認識してしまい、ゴールにたどり着いたと思ったら、相手が思い描いる姿とは結構違っているみたいで、その方から非難を受けました。。。


・・・まぁ、よくあるっつやーよくある話で、お互いに“自分の思い描いてるゴールが正しい!”みたいな言い合いになっちゃって、なんだか釈然としません。
お互いに自分の良しとする行動をしているはずだから、攻められると腹が立つわけで、結局は、“こんなズレが生じないように、よく話し合いましょうね。”ってことにまとまったんですが、なんか、良かれと思った行動が、悪いことをしているってとられたときは、めちゃめちゃむかつくw


さて、ここでとるべき道が二つあります。

一つ目は、徹底的に自分の主張を押し通す道。

自分の思い描く仕事上のゴールこそ正しくて、相手の認識は間違っていると言い負かす道です。
おそらく、実在的に仕事をこなすのなら、こちらの道を歩むのがとてもまっとうだと思います。


もう一つは、相手を理解する道。

謝っちゃって、相手の言い分を肯定しつつ理解して、先に進む道。
こっちの道は難しい。
容易に理念に陥る。
もし自分が“人と喧嘩してはいけない。”という、倫理的・道徳的な理念と同一化してしまっているのなら、こうした行動は取りやすいけれども、理念に基づいた行動は、その人が自分の責任のもと、自分で考えて下した判断とは言い難くなってしまうから、ある意味、無責任な暴力的な善意に陥りかねない。
つまり、倫理的・道徳的判断は、その状況において、その判断を基付ける現実経験から掴まれたものであるのなら、とても意味のあるものだけど、現実経験から掴まれない、理念的な判断になるのなら、それは空々しい虚空の行動でしかない。
光に向かって走っていく昆虫のような空虚さを感じます。
・・・漫画「北斗の拳」の中で、面白いエピソードがあります。
ラオウがある村にたどり着くと、その村は非暴力主義の村でした。
ラオウがどんなにひどいことをしても、その村の住民はヘラヘラと笑顔でいるのです。
村の住民の言い分はこうです。
「怒りは憎しみを生むから怒ってはいけない。いつも笑顔でいなければ争いはなくならない。」
この住民の言い分を聞いて、ラオウはむかつくわけですw
“こいつら自分で考えてねーじゃん。”っつって、殺しちゃうんですけど、そこでよかったのは、村の若者に“必要な怒り”を教えて去っていくところです。(確かそうだったはず。)
そんなわけで、こちらの道には、きちんと現実経験から掴まえて、相手を理解するに相応する理があるのなら許すべき、という注釈がつきます。


・・・そうした二つの道があるなぁと思って、結局僕は一つ目の道、相手と喧嘩する道を選んじゃったんですが、どうやら第三の道がありそうです。


家に帰っても釈然とせず、音楽を聴いていました。
倉本美津留の「C幼笛」って曲です。
歌詞の内容をそのまま転載すると著作権に触れるので、だいたいの意味を書きますが、「偶然だかなんだか知らないけれど、誰かの粋な計らいに気づいたら笛を吹こう!」見たいな感じです。
・・・ポイントは“粋”です。
善意の押し売りでも、相手と喧嘩するのでもなく、意味化するような道です。。。風流するとかいうニュアンスが近いのかもしれません。
善意とか悪意とか、真実とか虚偽とかではなく、胃の腑に落ちる出来事を探る道です。


とりあえず明日は、仕事上喧嘩した相手をものすごく間接的に支援できるような、プラグマティズムに反するような支援方法がないか探って見ますw
で、そのことに相手が気づいてくれたら、ちょっとうれしいかもw