久遠塔 1-3。

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これに対して、手元にあるタバコの現実感は、少し様態が違います。
タバコと僕は、アクションとリアクションの関係にあります。
僕がタバコを吸うというアクションを起こすと、タバコは減って灰に変わるというリアクションを起こします。
つまり、鉄塔の実在は確信でしかないけれど、タバコの実在性は直接的に点検できるものであるということです。

これが近くにあるものの実在性の様態です。


こんな風に物事に一時停止をかけてその特徴を探ってみると、そこには数々の違いを見つけることができるのですが、振り返ると、私たちの現実のほとんどは、この鉄塔の実在性のように、自分自身の確信を頼りにして成り立っていることがわかります。

たとえば、僕が朝起床して仕事に行くとき、そのほとんどは確信です。
僕は毎日車で通勤しているのですが、僕にとってのアクションーリアクションの関係は、わずかに車の車内のみです。
毎日見かける潰れかけたスナックは、決してその中に入ったことが無いのですが、そこに実在していることに疑いを持ちません。
毎日見ている梨園は、きっと土の臭いと木の臭いがして、おいしい梨がなるのでしょうが、僕はまだその梨園を直接的に体験したことはありません。しかし僕は、その実在性に疑いを持ちません。
朝の通勤の中で、直接的な現実性としての現実感を持っているのは、わずかに車内の空間のみであり、その他の光景の実在性は、自分自身の確信に信頼を置くことでしか現実感を保てません。

では、このこと自体を一時停止して、そもそも何故、僕たちは遠くに在るものの実在性に対して、まるで直接的に手元に在るものと同じように、現実感を持つことができるのでしょうか?

そのための手がかりは、僕たちの中に沈殿していて、地平線のように見えては隠れる、過去の経験です。
僕は、この鉄塔そのものを直接的に体験したことは無いけれど、実は既に知っています。
たとえば僕は、この鉄塔の匂いを嗅いだ事はないけれど、以前、別の金属の嗅いだことがあるので、金属が雨に濡れるとどんな臭いをするのか知っています。
この鉄塔の表面には触れた事がないけど、以前、別の金属にふれたことがあるので、金属の表面がどういう状態であればざらざらするのか知っています。
以前、動物に触れた事があるので、動物の体毛がどういう感触か知っています。
カラスの羽は黒いのですが、僕はどのような色を黒と呼ぶのか、既に知っています。


このように、僕たちの中に沈殿している過去の経験が、現在の生々しさを形作っていると表現できます。

つまり、この鉄塔は、決してたどり着けない彼岸の塔であるが、僕はこの塔の現実性を知っているので、既在の塔でも在るといえます。

さて、こうした反省を経て、僕達は、既に在る過去の地平に飛び込む準備が整いました。