速度またはテンポまたはリズムまたはタイミング的。

自転車で近所を放浪してみましたw

自転車のスピードは思考の速度とぴったり合ってて、快適快速w
車は速すぎて考えていられない。

ケータイのテンキーはちょっともたついて思考のテンポに合わないです。
ゼロ3のキーボードは思考のテンポとぴったり合ってて、快適快速w
PCのキーボードは速すぎて考えていられない。

ファミレスで本を読んでいると自分のリズムで読めて良いです。
家で読んでいると、リズムが解体しちゃって眠くなる。
ファミレスにいると他人の視線があるから、自分のリズムが保てるっていうか、そんな感じw
他人の視線が自分のリズムを形作っているっていうか、そんな感じw

タイミングの合う人と話していると気持ちが良いものですね。
お互いの視線がお互いの視線を規定しあって、心地よいです。
心地よい視線の規定がお互いのリズムを形作っている。
こうした経験は結構貴重だから大切にしたいなー。


ここで価値観に敏感になる必要があります。
それは、僕らの内に暗黙に潜んでる習慣化された二項対立です。
即ち、“本来ー非本来”の対立です。
この二項対立を打ち立てると、味わい深さや奥行きやゆらぎ性やランダム性がなくなっちゃう。
雰囲気がなくなっちゃう。

心地よいリズムをもった関係性を本来的な(ありうべき。正しい。)関係性としたり、悪いリズムをもった関係性を非本来的な(ありえない。良くない。)関係性としてしまうと、現実の幅がどんどん狭くなってしまいます。

それはそれでぜんぜん問題ないですし、倫理的な規制を次々と打ち立てていく方がなんだか強く深く考えている気分になってくるから問題ないんです。。。・・・問題ないってことは、価値評価成立の手前には行かないでもいいんだろうなぁ。。。まぁ、手前に行った方が良いっていえば良いのかもしれないけど、行かないでも良いっつやー良いしw

なんつーか、どっちでも良いんだろう。

それもまた良し也。。。なんつってw

そうしたわけで、気の合う友人との何気ない会話って、“本来ー非本来”っていう価値評価を使った判断が追いついてこれないような大切な体験なんだろうなぁ-って思いましたw