サイロの感想。

エイフェックス・ツインの新しいアルバム「サイロ」を買いました。
 
特別仕様のジャケットは不親切で、なかなかCDを取り出すことができません。
 
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CDを保存しておくジャケットというものは大切なもので、このジャケットがなければCDを外部から守ることができません。もし、大切なCDの再生部分(つまり、裏の部分です)に傷がついてしまったら、どんなお気に入りのCDも、再生することができなくなってしまいます。なので、CDのジャケットというものは、そのCDが外部から傷つけられないように守る役割があるのです。だがしかし、エイフェックス・ツインのアルバムジャケットというものは特別で、厳重にCDを保護してあるのです。幾重にも幾重にも折り重なって、正直うざいし、邪魔だし、僕はこのアルバムを買ってCDを取り出すまでに、苦虫を噛み潰したような表情になってしまいました・・・。
 
CDを買ってこんな気分になったのは久しぶりです。。。
 
そう・・・“久しぶり”ということは、過去に経験したことがあるのです。。。
 
それは、1995年のことです。当時の僕は高校生に成り立てで、パンクでした。どのくらいパンクかというと、細野さんの「メディスン・コンピレーション」がお気に入りで、環境音楽でテクノでした。だからパンクです。そんな僕が1995年に購入したのは、電気グルーブの「PARKING」というボックスセットです。なんかでかくて、いろんなキャラクターが書いてあって、運転手がついていました。そして、このボックスを開けると、なんか音声が流れるんです。なんていってるかはよくわからないし知りたくもないけれども、このボックスを開けると音声が流れるんです。なんだかよくわからない音声なので、苦虫を噛み潰すしかありません。もちろん、僕は苦虫を噛み潰したことはありませんので、苦虫を噛み潰したときにはどのような表情になるのかはよくわからないけれども、幸福でもなく、絶望でもなく、なんというか弱った感じの表情に陥っていたことは確かです。
 
・・・そうだ・・・この感じだ・・・エイフェックス・ツインの新しいアルバム「サイロ」からCDを取り出す過程で感じたのはこの感覚だ・・・。
 
そして、なぜ、エイフェックス・ツインの人は、こうした厳重に梱包したジャケットにしようとしたのか、僕なりに考えてみました。
 
人は、生きている以上死にます。
 
僕の父親も、今月いっぱい生きれるかどうかです。
 
「死ぬのはいつも他人ばかり」と表現したのはマルセル・デュシャンのようですが、やはり人は死ぬのです。そして、人は死を自分のものにすることはできません。死を経験したら最後、人は意識がなくなるので、その死を理解して表現することができません。なので、死ぬのはいつも他人ばかりで、死は死者のものです。そして、その死を表現できるのは、生きている者でしかないのです。しかも、死はその人固有のものでもあります。死ぬのはいつも他人ばかりだけど、死を経験できるのは自分自身でしかありません。現に存在することができないという、可能性が閉じられる経験として、死はその人固有のものです。
 
「死とは、経験することは決してできなが、その人固有の経験である」。
 
これが死の不思議さであり、恐ろしさでもあるのです。
 
さて、僕の父は死にます。
 
そして、それは父固有の経験でありながら、経験したら最後、父はそれを自分のものとして表現することができません。ということは、死に意味を与えて、その死を表現してあげられるのは、生きているものの役目になるのでしょう。たぶん、これ以上の表現はわざとらしくなってしまうのであまり書いても意味はないのでしょうが、死を生きているものの物語の中に礼儀正しく基付けてあげることが供養になるのだろうと思います。
 
さて、エイフェックス・ツインのアルバムです。
 
なんでエイフェックス・ツインの人は、こんなにも取り出しにくいジャケットにしたのだろう。
 
それはたぶん、道端に咲いているお花を見たときに感じる、無償の愛に近い感覚なのだろうな。もしくは、お空を流れる雲を見たときに感じる、救われた感覚なのだろうな。植物はなにも自己主張しないのに、それを見た僕たちは思わず笑顔になってしまう。雲は、僕たちの意志なんて、なんてちっぽけなものだってことをおもいしらせてくれるんだ。
 
たぶん、「サイロ」のジャケットは、こうしたことなのだ。
 
ありがとうエイフェックス・ツインの人!
 
ありがとう「サイロ」のジャケット!
 
まだ曲は聴いてないけれど、ありがとうWARP