『ロボコップ』の感想(お散歩・3)。
ロボコップ見てきた!
面白かった!
決して、スペース皇帝「デスロイジャー」が宇宙エンペラー「マーフィー」 率いる宇宙海賊をサイドロエフェクトで逮捕するって話じゃなかった!
ちゃんと真面目な映画だった!
※ネタバレ注意。
なんていうか、テーマが幾重にも重なってる気がして、唸りながら見ていたよ。
まずは、医療関係者に見てもらいたいなぁ。
前半なんて、事故って障害持った人がどうやってそれを受容していくかって話に見えたしな。
人間性とはなにか?って問題も扱ってると思うし、なにより面白かったのは、意味が作られていく過程がみれるところなんだ。
❝意味が作られる❞っていうと大げさだけど、ロボコップという製品が作られていく過程っていうのかな。
最近の例の作曲家さんや科学者さんの話題もこの映画を見るための良い伏線になってて、余計にこの部分が際立って見えたよ。
まぁ、前作でもそうだったんだけど、ロボコップってのはオムニコープ社っていう企業の製品で、金儲けのためのキャラクターなわけだ。で、オムニコープ社の人たちは、利益を得るためにあれやこれやと策を練るんだけど、どうも僕には彼らが悪人には見えないんだよね。なんていうか、「企業人としてやるべきことをしている人たち」に見えるんだ。
もし僕がオムニコープ社の社員で、ロボコップの企画担当を任されたら、あんなに上手にはできないだろうけど、「どうやってこの製品を大衆受けするように仕立てようか?」って考えるだろう。持てるスキルを使って、市場を調査して、世間に合わせた人選をするだろうし、リリース日までには何とか売れるようにしようと頑張るだろう。
おそらく、映画の中でもオムニコープ社の社員たちは、企業人としてやるべきことをきちんと果たしているように思えるんだ。
でね。
一番怖いのは、僕がそう思ったように、「企業人として製品を売るためにはどのように行動すべきか?」ってう像が、漠然とでもその人の中に一般化されているところにあるように思えるんだ。❝像が内在化されている❞って表現したほうが適切かな?
「物を売るためにはこうしなきゃ!」っていう、世界像が暗黙の常識と化していて、企業人として勤め上げようとするためには、その暗黙の常識を守ることが当たり前って感じになっているところ、ここが僕には一番の恐怖に感じられるんだ。
これはどんな集団にも言えることで、人が何人か集まるとルールが出来上がって、世界像が作り上げられて、それが自律的に動き出してしまう。
この❝世界像が自律的に動き出す❞ってところがポイントで、例の作曲家さんや科学者さんの時もそうだったんだけど、マスコミの人たちは「この人話題になる」ってなったら、必死で持ち上げて、嘘だと思ったら必死でこき下ろしたでしょ?それは見ていてとても滑稽なんだけど、だからといって、誰かが悪意を持って行っているとは決して言いきれず、むしろ、人々のなかにある「マスコミとはこういうものだ」という世界像に従って行動した結果がこうなっているということなんんじゃないかな?
作曲家さんや科学者さん騒動の場合は、「マスコミの人たちがマスコミという世界像に求められる役割に従って行動した結果、倫理的に滑稽に思える状態になっている」といいう感じかな。
さて。
じゃあどうするかが問題だ。
確かに、人は集団になると価値の体系を作り上げる。そして、それにそぐわない人は生きていけない。でも、世界像は気を付けないと自律的に動き出しいてしまい、行動を規定してしまう。その結果、作曲家や科学者やロボコップが出来上がってしまう。。。
・・・僕らにできることといったら、せいぜい❝気づくこと❞くらいになるんじゃないかな?
人が集団を作ることや、世界像が出来上がること自体を否定することは人間の基本的なあり方を否定することにもなってしまうから、それはあまりにも不自然だろう。そんなんはお気楽な理想主義だ。そうじゃなくって、人間の人間らしさを認めたうえでなんとかしようとするのなら、世界像が出来上がってそれが不都合に働くことがあるという、その成り立ちに気づくことだと思うな。
同じような理由で、集団でみんな仲良くすることを尊重しすぎてしまうこともお気楽な理想主義だといえると思うな。時には集団から身を話して、その価値観が現実離れしていないかチェックすることも必要だと思うし。。。
ということで、ロボコップは面白かった!
決して、スペース皇帝「デスロイジャー」が宇宙エンペラー「マーフィー」 率いる宇宙海賊をサイドロエフェクトで逮捕するって話じゃなかった!w