『生きる』の感想。

黒澤明監督の『生きる』観終わりました。

たぶん、世界を「私にとっての世界」として現象させていくような人間の“実存的なありよう”と、そうした“実存的なありよう”をも規定していまうような“背景的なもの”(状況だとか、構造だとか)とのなんともいえない相関関係っていう主題が、人々の胸を打つのだろうなと思いました。

この映画の絵解きをするときに肝となるのは、倫理的・道徳的な価値評価をカッコに入れて一旦しまっておくことだと思います。この作業を行なわないと、どこかに「本来的な人間のありかた」っていうのを想定してしまう可能性があります。

つまり、「~~という生き方こそが本当の生き方だ」というふうに。
さっきの言葉を使うと「“実存的なありよう”に従うことこそ人間の本来的なあり方だ」とか「“背景的なもの(状況や構造)”を受け入れることこそ人間の本来的なあり方だ」とかいったふうに。

たぶんありのままの現実を語るならば(現実が既に混濁しているという理由から)どちらが本来的な人間のありようかは証明のしようがないと思います。証明のしようがないにも関わらず、どちらかを“本来的”とするならば、それでは彼岸の世界を作り上げてそれを夢見ている人と変わらないではないでしょうか?

・・・僕にはお気楽理想主義のようにうつってしまう・・・。

もし、この映画から得られる視点を頼りに、考えを先に進めようとするのならば、“実存的なありよう”と“背景的なもの(状況や構造)”が混濁しているという、そのどうしようもない現実の現実らしさから始める必要があるだろうな。

そこから始めて、いったい僕らはなにをめがけることができるのか?ということを考えてみると面白いかもしれない。