ターンテーブルの上で回るのは猿なのか龍なのか。
否。
僕は“否。”と判断を下すことができるのだ。
出来事に“否。”という意味を与えて、出来事から距離をとることができるのだ。
この“距離をとるということ”、これこそが環境に癒合せずに生きていられる、人間の開放的な性質といえるのだ。
出来事に“否。”という意味を与えて、出来事から距離をとることができるのだ。
この“距離をとるということ”、これこそが環境に癒合せずに生きていられる、人間の開放的な性質といえるのだ。
つまりは。
理性だ。
悲喜こもごもだ。
ターンテーブルで猿は回るのだ。
だがしかし。
“否。”の視野はどこまでも広がり、世界は人により現象させられる。
“否。”の視野はどこまでも広がり、世界は人により現象させられる。
ノンの視線は酩酊の帝国にも広がり、ついにはアルコールまで“否。”の視線にさらされることになったのだ。
「アルコールを飲んで酔っ払ってはならない」という人間の健全な理性は、アルコールをアルコールから開放したのだ。
「アルコールを飲んで酔っ払ってはならない」という人間の健全な理性は、アルコールをアルコールから開放したのだ。
ノンのビールは人により現象させられる。
ノンのビールは理性のビールなのだ。
だがしかし。
ノンアルコールビールというものは良いものなのだ。
脂っこい料理を食べてビールを飲みたくなって、だがしかし酔っ払ってはいけないという場面で、ノンアルコールビールならばごきゅごきゅ飲めるのだ。
ノンアルコールビールというものは良いものなのだ。
脂っこい料理を食べてビールを飲みたくなって、だがしかし酔っ払ってはいけないという場面で、ノンアルコールビールならばごきゅごきゅ飲めるのだ。
だから。
僕は。
その缶は道端に“ドグゥシャァアアアアーン”という音を立てて落ちたのだ。
その缶は道端に“ドグゥシャァアアアアーン”という音を立てて落ちたのだ。
その缶は道端に“ドグゥシャァアアアアーン”という音を立てて落ちたのだ。
人の。
理性は。
簡単に道端に落ちるものなのだ。
そして。
その缶の底には小さな穴が開いたのだ。
その缶の底には小さな穴が開いたのだ。
その小さな穴からは、ビールの擬態が“シュブファアアアア。シュブファアアアア。”“シュブファアアアア。シュブファアアアア。”と飛び出してきたのだ。
それは差し詰め、「可変的人類愛」だった。