既知限界的未知性。

今月は飲み代が3500円ほどで済んでいるのですが、それには理由があります。

今月の僕は、例の「ほうかしき炎」で足が痛かったため、お酒を抜いたのです。

だから飲み代が安いのです。

「ほうかしき炎」になると感性と悟性の区別がつくようになります。

ならないのだけど、つくのです。


「ほうかしき炎」になったのは僕の足であり、足が腫れたのであり、足が痛かったのですが、足が痛かったのですが、僕の意識はクリアでした。
意識がクリアであるということは、出来事に対してある程度判断をつけることが出来るということで、そうした状態であるのならば、僕は仕事をしてもいいはずだ。

“東京”という表現よりも“トーキョー”という表現のほうが近未来的なのだが、その近未来感レトロフューチャーをフューチャーした90年代のソニーテクノに感じる近未来感なので、2010年代の近未来感として妥当かどうかはわからないはずだ。

だがしかし、仕事はしてはいけない。というよりも、「入院したほうがいいですよ」というアドバイスをいただいたのです。
それも、一人や二人ではなく、三人や四人くらいの人にアドバイスをいただいたのです。
いや。
三人や四人の人間に、「入院したほうがいいですよ」というアドバイスをいただいたのです。
中には、「ほうかしき炎」がなかなか治らずに手術もしたという人もおり、実際の体験談を聞いて、「そうした人間もいるものなのだ。この炎症を侮ってはいけないのだ」と、思いました。

そうしたふうな感じになったので、とても不安です。

不安じゃないけど、不安なんです。

だから、僕は、この不安感をどうにかしたいと思いました。

何人かの友人にこの不安感をぶつけてみました。
だがしかし、僕の感じている不安感を受け取ってくれた人は極わずかです。
っていうか、一人しかいなかったw
そのほかの多くの人は、僕の不安感についての感想や客観的な評価をするのです。
僕の不安感について、それを聞いた人が「私はこう感じた」とか、「自分だったらこうする」とか、「それはこうした状況だから、こんなふうに対処したほうが良い」とか、そうした感想や評価をする人が大半でした。

・・・正直、そんな感想や評価はしったこっちゃありませんw

なぜならば、不安を感じているのは僕自身であって、僕の話を聞いた相手じゃないからです。
不安を感じているのが僕であれば、その不安に対して評価しているのも僕であって、その感じと評価からどうしたいのかを考えるのも僕自身なのです。

・・・たぶん、(ちょっとオーバーだけど)危機的な状態の中では、他人の意見はあんまり入ってこない気がします。
そんな中で、僕の不安感を感想や評価を交えないで、ただ「そうなんだ」と受け止めてくれたのは親戚のおばさんだった気がします。

なぜか?

ひょっとしたら距離が取れているからなのかもしれません。

親戚のおばさんとは交流はあるけど、そんなに頻繁にやり取りしているわけではありません。

そこそこの距離感なんです。

だから、まぁ、なんていうのか、感想や評価を交えずに、ただ単に「不安なんだねぇ」と共感してもらえたのかもしれません。


僕は人の話を聞く仕事をしているのですが、場合によっては形式的な態度をとらざるを得ないときがあります。
それはそうしたほうが有効であるし、それが必要だからなのですが、気持ちの受け取りを無視して感想や客観的な評価を与えるのは、なんつーか、こんなにも寒々しいものなのかなぁと思うと、日々の業務も見直さなきゃならないのかなぁと思いました。


そんな出来事があった後、今通ってる講座の小論が「『感じる』ことと『考えること』の違いについて」みたいなテーマでした^^

まぁ・・・なんていうか・・・こういうのって続きますよねw

きっと、感覚と知覚の違いから進めて、『感じる』ことと『考える』ことの違いを言い当てることができたらかっこよかったんだろうけど、そんなんはできずw

予定調和的な小論で済ませちったw


とりあえず、今月の飲み代は3500円ということでw