レモン虚像。

僕はこのPC、“黄昏のざわめき”の大きさを人に伝えるときに、おそらくタバコを利用します。
それは、タバコの大きさはほぼ一定で、しかも、多くの人がその大きさを知っているからです。
ですから、「“黄昏のざわめき”タバコ4個分だよ」というと、たいていの人がその大きさをイメージできると思います。

獣が出たとします。
僕が獣の大きさを人に伝えるとき、おそらくタバコを利用しません。
タバコの大きさはほぼ一定であり、多くの人がその大きさを知っているのだとしても、タバコで獣の大きさを伝えようとすると、「この獣はタバコ何百個分だよ」といっても、個数が多すぎて、その大きさをイメージできないからです。
ですので、こうした大きなものを伝えるときは東京ドームを利用します。
「この獣は東京ドーム数個分だよ」といったほうが大きさがイメージできます。


さ。

て。


黄色い飲み物や黄色い食べ物があります。
それは、ビタミンが豊富に入っている食品です。
そうした食品には、帯にキャッチコピーのようにフレーズが入っています。

「レモン○○個分のビタミン配合!」

問題はその個数だ。

その個数が尋常じゃあない。

レモンの数個分ならまだ伝わるんですが、中には“レモン数百個分配合”とかいう記載もあります。
で、よくみると、この“レモン数百個分”という記載はそんなに珍しいものでもないようです。
多くの商品でレモンの個数を基準にビタミンの多さを訴えていますが、その個数の多さは尋常じゃあありません。

と。

いうことは、そもそもレモンにはそんなにビタミンが入っていないんじゃあないのだろうか?

ビタミンの多さを人に伝える基準としてレモンは不適切なんじゃないだろうか?

調べてみると、ブロッコリーのほうがビタミンが多く入っているようです・・・。

ブロッコリー数個分のビタミン配合!」

このほうがすっきりとビタミンの多さを伝えられそうだ。

が。

しかし。

僕は「ブロッコリー数個分のビタミン配合!」というキャッチコピーのついた商品を購入するのでしょうか?
それがブロッコリー的なものならば間違えなく購入するでしょう。
だがしかし、多くのビタミン商品はブロッコリー的なものではありません。
どちらかというと、レモン的なものです。
レモンのようにすっきりとした飲料水に「ブロッコリー数個分の~」というコピーがつけられていたとしたら、僕は購入をためらうと思います。
なぜなら、そのコピーを見た瞬間、僕は“ブロッコリー味のついたブロッコリー飲料をブロッコリー的に摂取する”というイメージを思い浮かべるからです。

ということは、ビタミン商品のレモンを利用したビタミン量の伝達方法は、そのビタミンの量を的確に伝えるというよりも、「レモンのようにすっぱくてすっきりした食べ物、飲み物ですよ。」ということがわかります。




僕はPSWで、その職務は精神障害を持っている人が社会で生活をしていけるように援助するところにあります。
そのときよりどころになるのが“生活者”概念です。
その“生活者”概念は、実存のニュアンスにとても近いと感じられます。
ようは、「自分のありようは自分で決めて、自分の望む生活を自分で切り開いて行く」というようなもので、こんなふうに自分で幸福をつかんで行く姿は、言葉を変えて障害者の主体性の回復とか表現されます。

主体性・・・っていうけれど・・・本当に主体性は回復させるべきもので回復できるのだろうか?

僕たちは暗黙のうちに、主体性ってものは人間が本来持っているべきもので、人間が人間らしくあるべき姿と思い込んでいないだろうか?
つまり、知らず知らずのうちに僕たちは「ほんと-うそ」・「真-偽」・「正しい-正しくない」という理念を捏造してしまい、その理念の枠の内側で判断を下そうとしてはいないだろうか?
「主体的な人間=真実の人間」と思い込んでいないだろうか?


僕たちはレモンを利用したビタミン量の伝達方法を見てきました。
そこには意味の二つの側面がみてとれます。
ひとつは言葉そのままの意味です。
単純に「レモンに含まれているビタミンの量」という客観的な意味です。
もうひとつは客観的な意味の裏に隠されている「イメージとしてのレモン」の意味です。
そして、商品を売るという目的のためには、客観的な意味の裏に隠されている意味が利用されています。

ひとつの言葉を見ても、その背後にはいくつもの意味が渦巻いていることがわかります。
今の例はレモンでしたが、“男”とか“女”とかいう言葉はどうでしょうか?
その背景には、男性は社会に出て生計を立てて戦うものであり、女性は家にいて家庭を守るものであるという意味があります。
客観的な意味では性別を表すための言葉ですが、その背景にはこうした文化的な意味があるといえそうです。

で。
「主体的な人間=真実の人間」の話に戻りますが、主体性の背後にはその主体の行動を規定しているような背景的な文化や習慣や言語などの意味の群れが見て取れます。
僕たち自身こうした背景にうずもれながら生きているわけだから、こうした背景から距離をとるのはとても難しいのですが、そうした背景をに目を向けないと、出来事の持つ意味からはぐれちゃって、「真実の人間」っていう作られた理念に目を奪われることになっちゃいます。

そうしたわけで、主体だけに注目して、主体だけにアプローチするのはちょっと理念っぽくて現実から遊離してしまう危険性があるので、アプローチすべきは背景的な構造になるわけですが、その構造をどんな言葉で言い当てればいいのかはちゃんと考えてみる必要があります。




あー。
だからー。
コミュニティワークっつーのは、理念をコミュニティに押し付けるんじゃなくて、そのコミュニティの背後に動いているものに働きかけなきゃいけないわけでー、そうなると、文化とか習慣性に挑んでいくわけだから、やり方としては教育的って方法じゃなくって、一緒に生活するっていうか、出し物・・・詩・・・劇・・・音楽・・・そんなんを使っていろんな理念を解体していくのもひとつの方法なのかなーとか思ったんです。