自己紹介:class2。 “不在の現実。”

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妄想が現実を裏付けている。

私は今、PCのモニターを見ています。
そして、私はそのことに疑いを持ちません。
あなたは、PCか、もしくはそれ以外のビューワーを使い、この文章を読んでいます。
そして、あなたはそのことに疑いを持ちません。

さて、私はモニターの裏を覗きます。
モニターの背面は黒色で、メーカーのロゴが入っています。

問題はこの瞬間。
モニターの背面を見た瞬間の現実感です。

モニターの背面を見たとき、モニターの前面の現実性は隠れてしまいます。
モニターの背面を見ているときは、直接的な現実に現れているものは背面の光景のみであり、モニターの前面の現実感は、“ちょっと前の出来事”として私の記憶に残っている前面の印象の疑えなさを頼りにしています。

モニターの前面を見ているときも同じで、直接的な現実は前面の光景のみで、背面の光景は自分の記憶を信頼するしかありません。

現実は、常に不在の現実と共に成り立っている。

モニターの前面を見ているとき、その背面がどうなっているか、誰にもわかりません。
ひょっとしたら、その“ちょっと前の出来事”は、もう既に今の現実とは違ってしまっているかもしれない。
今の現実とは違う不在の現実を信頼してしまったら、それは妄想を信頼しているのと変わりがないのかもしれません。

妄想が現実を裏付けている。

しかし私たちは、不在の現実=“ちょっと前の出来事”を信用するしかありません。たとえそれが現実とズレてしまった妄想だったとしても、その経験の疑えなさに自分を投げ入れるしかないのです。

さて、私はこのブログにて文章を書きますが、それはすべて自分の記憶を頼りにします。
“ちょっと前の出来事”である不在の現実を、直接的な現実として文章化するので、そこには常にズレが生じることになります。このズレは妄想のような不確かなものかもしれませんが、そうした妄想が私たちの現実を生気付けてくれています。

そうしたわけで、現実からの遊離が開始します。


自己紹介:class3。
http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/15665787.html